花嫁は暗号室から消える

諜報員ロザリンは、和平会議で暗号鍵を奪われた責任を取らされ、敵国宰相との政略結婚を命じられた。婚姻後は暗号室に住み、祖国との連絡を禁じられる。

祝宴の裏で、彼女は最後の報告書を燃やした。任務失敗の夜、民間人を逃がすため鍵を囮にしたことは誰にも話していない。命令違反を知れば、相棒たちも失望する。救出の符号は送らなかった。控室の鏡には既に敵国の紋章が刻まれ、彼女の本名を呼ぶ者はいない。ロザリンは最後の任務名だけを胸の中で繰り返した。

花嫁控室へ、護衛クレフが無言で剣帯を置いた。剣は抜かれ、鞘だけが残っている。

「中庭の植木鉢に本体を隠した。帰りに拾え」

暗号卓では解析官ピネラが、二脚ある椅子の片方へ赤い封筒を置いた。

「夜勤の席、まだ交代してない。あなたの癖字でしか読めない文書がある」

外門から三度、車輪止めの音がした。舞台役者ゼドが葬送馬車を借り、御者姿で待っている。

「花嫁は目立つ。死人のふりなら得意だろ」

宰相が婚姻契約を持って入る。ロザリンは逃げ道を見ても動けなかった。彼らが民間人救助を知らない今だけは助けてくれる。真実を話せば、命令を破った自分を置いていく。

「鍵を奪われたんじゃない。私が渡した」

一瞬の沈黙。クレフは鞘を回し、底から小さな金属片を出した。あの夜の鍵の複製だった。ピネラは赤い封筒を開き、救助された住民百二十名の署名を並べる。ゼドは馬車の扉を開いたまま、座席を三つ空けた。

「知ってる」とクレフだけが言った。

宰相の暗号網は複製鍵で既に解読され、和平会議を壊したのも彼の自作自演だと判明した。兵が彼を拘束する。

だがロザリンはまだ馬車へ乗れない。次も命令より人を選び、組織から追われるかもしれない。

「また規則を破る」

ピネラは暗号卓の椅子を畳まず、クレフは鞘を預けたまま、ゼドは御者台から降りて馬へ水をやった。

「なら、逃走経路を三本用意する」とゼド。

ロザリンは誰の手も選ばず、まず葬送馬車の中央へ座った。鞘、夜勤席、開いた扉。秘密を全部知られたあとにも、帰る場所は減るどころか三つに増えていた。