英語の名札を外す
小野寺遥歌は、空港の到着ロビーで英語名の名札を外した。
〈HAL〉。海外支社で呼びやすいよう父が考え、留学前に作った名前だった。父は商社勤めで、娘も世界を飛び回る仕事に就くと決めていた。
スーツケースは一つ。中には退職時にもらった寄せ書きと、地方の文化財修復所から届いた作業着が入っている。
父から電話がかかった。
「乗り継ぎは? 成田からそのまま本社へ挨拶に行け」
「本社には行かない。会社を辞めた」
ロビーの雑音の中でも、父が息を吸う音ははっきり聞こえた。
「何を言ってる。海外勤務の実績がやっとついたのに」
「来月から漆器の修復をする」
「大学院まで出て、職人の下働きか」
遥歌は迎えの車を待つベンチへ座った。父が選んだ国際関係学部、父の紹介で入った会社、父が直した英文履歴書。どれも歩けないほど嫌だったわけではない。だからこそ、自分が選んだと勘違いしやすかった。
昇進するたび、父は「予定どおりだ」と言った。遥歌が努力して得た結果まで、父が最初に引いた一本の線の正しさへ回収されていった。
「英語を使った十年は無駄じゃない。でも、続きをお父さんに予約させない」
「家に帰ってから話そう」
「今日は帰らない。駅前のホテルに泊まる」
実家の鍵は、スーツケースの前ポケットにある。遥歌はそれを取り出した。
「鍵も明日、書留で返す。今後は連絡してから行く」
「そこまでしなくてもいいだろう」
「帰ったら説得が終わるまで出られないから。今回は会わない」
父は「母さんが泣くぞ」と言った。遥歌は母の感情まで受け取らず、「落ち着いたら私から連絡する」とだけ返した。
通話を切ると、迎えの車の運転手が〈小野寺遥歌様〉と書いた紙を掲げていた。HALではない。
遥歌は名札をゴミ箱へ捨てず、スーツケースの内側へしまった。海外で働いた自分まで否定する必要はない。ただ、その名前で次の行き先を呼ばせない。
運転手に自分の名前を告げると、作業着の入った荷物が車へ積まれた。空港を出る道は、実家とは反対方向だった。