蜂のいる描きかけ

 立花川青司は、広告イラストレーターだった。

 依頼に合わせて、爽やかな朝、楽しげな家族、理想的な食卓を描いた。描けば褒められたが、自分が何を見て描きたいのか、少しずつ分からなくなった。

 仕事を休み、高原の古民家へ移ったあとも、白い紙を前にすると手が止まった。

 庭には、使われていない巣箱が二つあった。

 近所の養蜂家によれば、前の住人が蜜蜂を飼っていたらしい。青司は巣箱を修理し、屋根を張り替えた。

 春になると、一群の蜂が自然に入り込んだ。

 箱の前を金色の点が忙しく行き来する。

 青司は毎朝、椅子を置いて蜂を見た。

 描こうとすると、羽の速さに線が追いつかない。形を正確に取ろうとするほど、蜂はもう別の花へ移っている。

 養蜂家は言った。

「全部描かなくていいよ。帰ってくる道だけ見れば」

 青司には意味が分からなかった。

 ある午後、蜂が一本の白い花へ何度も通っているのに気づいた。

 飛び立っても、しばらくすると別の蜂が同じ花へ来る。青司は花と巣箱の間へ、薄い線を一本引いた。

 次に、羽音のような短い線を重ねた。

 蜂そのものは一匹も描けていない。それでも紙の上に、行き来する気配が生まれた。

 青司は久しぶりに、時間を忘れて手を動かした。

 夕方、養蜂家が小瓶の蜂蜜を持ってきた。まだ収穫量は少なく、巣箱のものではないという。

 二人で古民家の台所へ入り、焼いたパンへ薄く塗った。

 花のような甘い香りが、噛むたび口に広がる。

「絵、完成した?」

 養蜂家が訊く。

「まだです」

「なら、明日も見られるね」

 青司は紙を壁へ貼った。

 未完成のまま、蜜蜂の季節を重ねていくことにした。夏には濃い緑、秋には枯れた草、冬には空の巣箱。完成の時期を決めなければ、描き続けられる。

 夕暮れ、蜂たちは一匹ずつ箱へ戻った。

 庭に静けさが降りると、青司は鉛筆を置き、蜂蜜を溶かした温かいミルクを飲んだ。

 削った木の匂い、甘い湯気、紙の白さ。

 描きかけの絵は、できなかった証拠ではなく、明日もここへ座るための余白になっていた。