財布が空になる夜

夫の証明写真を、妻は財布の透明ポケットへ入れていた。

運転免許証を更新した日の、不機嫌な顔。

夫が亡くなったあとも、その写真だけは毎日買い物へ連れていった。

定食屋を始めるため、妻は貯金を使い果たした。

工事費が予想よりかかり、開店前夜、財布には硬貨が二枚しか残っていなかった。

レジ代わりの箱へ最後の硬貨を移すと、証明写真の夫が言った。

「また空にしたな」

夫は、財布に一円もなくなったときだけ話した。

若い頃にも、二人はよく給料日前に財布を空にした。

妻が資格学校へ通った年。

夫が中古の調理器具を買った年。

夫婦はそのたび、冷蔵庫の残り物で妙な料理を作った。

「店、失敗したらどうしよう」

妻が尋ねると、夫は写真の中で眉を寄せた。

「失敗してから考えろ」

「もう少し優しく言えない?」

「写真が余計な口を持つと、こうなる」

妻は笑った。

翌日の開店初日、客は三人だった。

二日目は一人。

三日目は大雨で、誰も来ない。

仕入れ代を払うと、財布がまた空になった。

「向いてないかな」

夫の写真へ言う。

「味は?」

「あなたより薄味」

「じゃあ大丈夫」

「何が」

「私の店より長持ちする」

夫は昔、小さな食堂を三年で畳んだ。

妻はその失敗を、夫が恥じていると思っていた。

だが写真の夫は、

「三年、朝飯を作った。失敗だけじゃない」

と言った。

妻は定食屋の名前を変えた。

「三年目」。

いつ畳んでも、そこまで続いた時間を数えられる名前にした。

近所の学生へ安い朝定食を出すと、少しずつ客が増えた。

財布が空になる回数は減った。

夫の声も、年に一度聞くかどうかになった。

五年目、設備が壊れ、修理代で久しぶりに財布が空になった。

妻は写真へ言った。

「三年、越えたよ」

夫は答えなかった。

透明ポケットを見ると、証明写真の口元が以前より少し緩んで見えた。

その夜、常連客たちが修理を手伝いに来た。

電気工事のできる人、床を直せる人、差し入れを持つ学生。

妻の財布は空でも、店の中は人でいっぱいだった。

閉店後、妻は夫の写真をカウンターへ立てた。

「空っぽって、何もないことじゃないね」

写真は話さない。

財布には、客が置いていった小さな釣り銭が一枚残っていたからだ。