赤になった暑さ指数
木佐貫万葉が市民マラソンの運営本部で引き継いだのは、開始時刻を守る仕事だった。
翌日から産休に入る寺島椎奈は、過去五年、号砲を一分も遅らせていない。今朝も気温は三十一度で、規定の中止基準三十五度には届いていなかった。
「スポンサー中継があるから、九時ぴったり」
八時二十分、救護班から暑さ指数が赤になったと連絡が来た。気温だけでなく湿度と日射を含む値で、長時間運動を避ける水準だ。運営表には参考値としか書かれていない。
責任者は「規定は気温だ」と号砲準備を続けた。万葉はコース上の三つの測定器を確認した。一台だけ低い値だったが、スポンサー看板の陰に置かれている。日向の二台はどちらも赤。去年の試走で倒れた参加者の記録にも、同じ配置図が添付されていた。
万葉は開始を止めた。長距離部門を中止し、短距離部門を十分ごとの少人数スタートへ変更する。給水所を一か所増やし、初心者には返金を選べるよう案内した。若いスタッフが「怒られますよね」と言うと、万葉はゼッケン箱を運びながら答えた。
「怒られる順番は後。倒れる人を出さない順番が先」
変更を告げる放送には、ため息と拍手が半分ずつ返った。遠方から来た参加者の一人は不満を口にしたが、その隣で小学生が母親の帽子へ水をかけていた。万葉は返金窓口を増やし、走らない選択をした人にも記録証を渡せるよう、その場で用紙を作り替え、給水所の位置も大きな文字で印刷し直した。
中継枠は崩れたが、救急搬送は一件もなかった。参加者の多くは短いコースを歩き、完走証の代わりに冷えたタオルを受け取った。
椎奈は閉会後、万葉へ運営責任者の腕章を渡した。
「私は毎年、規定の数字に助けられてた。でも今日は、数字の外を見たね」
主催者は次回大会の責任者を打診した。ただし、中止権限は委員長だけに残すという。
万葉は腕章を机へ置き、〈暑さ指数による停止権限〉を追記した契約書を返した。修正版が届き、その一行を確認してから署名した。