赤鉛筆の最終稿

最終電車が終点へ着くまでの五分間、伊吹恭介は死んだ作家の原稿を直し続けた。

 膝の上には三百枚の束。赤鉛筆。最終ページの一文だけが空白だった。

〈彼は終電に乗らなかった。なぜなら――〉

 恭介が続きを書くと、車内灯が消える。次の瞬間、原稿は元に戻り、向かいの空席から作家の声がした。

「結末が弱いね、編集君」

 一周目、〈彼女を待つためだ〉と書いた。

「恋愛で逃げた」

 二周目、〈犯人だったからだ〉

「驚きだけだ」

 三周目、〈この電車が死者を運ぶからだ〉

「説明しすぎだ」

 恭介は赤鉛筆を折りそうになった。この作品を完成させれば、出版社の倒産を半年延ばせる。作家の遺作として予約は十万部。未完成のままなら契約金を返し、恭介の部署は消える。

「あなたなら、どう書くんです」

「私はもう書けない。だから君がここにいる」

 窓には駅ではなく、編集部の夜が映った。作家が倒れた日、恭介は締切を優先し、救急車を呼ぶ前に散らばった原稿を拾った。ほんの数十秒。その罪悪感を、遺作完成という仕事に置き換えてきた。

 原稿の余白に、周回ごとに増える赤字があった。作家の筆跡ではない。恭介自身の字だ。

〈終点へ進む条件――作者を一人にすること〉

 この原稿には二人の作者がいる。死者の名で売りたい編集者と、結末を渡したくない死者。どちらかの名前を消さなければ、物語は閉じない。

 恭介は表紙を見た。著者名の下に、小さく「構成協力・伊吹恭介」。会社が勝手に加えた表記だった。これを消すだけなら、自分の功績を失う。だが作家の声は笑った。

「それでは君は、まだ私を商品にする」

 残り一分。恭介は最終ページを開き、空白へ書いた。

〈彼は終電に乗らなかった。物語を終わらせる人が、もう誰もいなかったからだ。〉

 そして表紙から作家の名を塗り潰した。自分の名も、出版社名も、予約番号も。原稿の束を窓の隙間から一枚ずつ夜へ放った。

「結末が弱いね、編集君」

 声は穏やかだった。

「ええ。出版できないくらいに」

 最後の一枚が闇へ消えると、電車は終点へ着いた。

 翌朝、恭介は遺作紛失の責任を取って退職した。十万部の本も、部署も消えた。鞄には短くなった赤鉛筆だけがある。

 駅のベンチでそれを握ると、誰の声だったか分からない批評が胸に残った。

 結末が弱い。

 だから恭介は、その先を生きることにした。