転校前の地図帳
境野深冬は、転校する同級生から町の地図帳を借りた。
「最後に、行ってない場所を全部回りたい」
彼女はそう言って、放課後の教室へ地図帳を広げた。観光用ではない。道路、用水路、神社の石段まで細かく載った、図書室の郷土資料だった。
返却期限は金曜。転校日は土曜。
二人は赤鉛筆で行き先を決めた。
校舎の裏の古い水門。商店街の端の時計屋。線路脇に一本だけある桜。学校から見えるのに、名前を知らなかった丘。
月曜は水門まで歩いた。火曜は時計屋が休みだった。水曜は雨で、昇降口から用水路の流れだけを見た。
木曜、丘へ行った。
頂上には何もなかった。ベンチも標識もなく、低い草が風に倒れている。見慣れた校舎が、運動場の白線まで小さく見えた。
「思ったより近いね」
彼女が言った。
転校先は新幹線で四時間かかる町だった。深冬には、それが地図帳の外みたいに思えた。
「向こうでも地図借りる?」
「借りる。最初に学校から家まで赤線引く」
「本に書いたら怒られる」
「これは鉛筆」
「赤鉛筆だけど」
「消せる赤」
彼女は丘の場所へ、小さな丸をつけた。
金曜の放課後、二人で図書室へ本を返した。
司書が頁を確認し、赤い丸を見つけた。
「書き込みは困ります」
深冬が謝ろうとすると、彼女は消しゴムを出した。
丸はすぐ薄くなった。水門も時計屋も桜も、一つずつ消える。
最後に丘の丸だけが残った。
「そこも」と司書が言う。
彼女は消そうとして、手を止めた。
深冬が消しゴムを受け取った。
「私が消します」
本が返却されたあと、図書室の机には赤い消し屑だけが残った。
土曜、駅で見送るとき、彼女は小さなノートを深冬へ渡した。発車ベルが鳴っても、二人とも別れの言葉だけは地図のようにうまく書けなかった。
最初の頁に、地図帳から写した町の輪郭がある。丘だけ赤い丸で囲まれていた。
『消したから、覚えてて』
深冬はその日の放課後、一人で丘へ上った。
借りた地図帳はもう手元になかった。それでも学校から丘までの道だけは、頁を開かなくても曲がれるようになっていた。