返さない傘
退去日の朝から、雨だった。
玄関の傘立てには、透明傘が三本ある。柄に貼った白いテープへ、立石茉莉、帆足兼人、芝崎朔の名字がそれぞれ書かれていた。四年前、内見の日も同じような雨で、朔が一本しかない傘へ二人を無理に入れた。
「私の、骨曲がってる」
茉莉が傘を開く。
「先月の台風で使ったから」
兼人が言う。
「なんで人の使うの」
「透明傘なんて全部同じだろ」
「名前書いた意味」
朔は自分の傘を閉じたまま、玄関の段ボールへ座っていた。来週、ニュージーランドへワーキングホリデーに出る。茉莉は京都の小さな出版社へ入り、兼人は地元へ戻って父親の工務店で働く。
「朔、帰ってきたらどうするの」
兼人が聞く。
「帰ってから決める」
「それ、決めてないってことだろ」
「兼人は決めたんじゃなくて、決められてたんだろ」
雨音が一段強くなった。
兼人は父の会社を嫌っていた。茉莉は東京の出版社だけを受けて全部落ち、京都の内定を「第一志望だった」と家族に言った。朔は就活を一社も受けず、自由そうに見える選択をしたが、往復の航空券は買っていない。
「全員、行きたい場所に行くみたいな顔やめよう」
茉莉が言った。
「私は拾ってもらっただけ。兼人は戻されるだけ。朔は逃げるだけ」
「朝から刺すね」
朔が笑う。
「もう一緒に朝を迎えないから」
三人は、誰の傘が一番ましかを調べた。茉莉のは骨が一本曲がり、兼人のは持ち手が割れ、朔のは小さな穴が空いている。どれも新居へ持っていくほどではなく、雨の中へ出るにはまだ使えた。
茉莉は兼人の傘を、兼人は朔の傘を、朔は茉莉の傘を取った。
「返して」
茉莉が言う。
「次に会ったとき」
兼人が答えた。
「会う理由を物に任せるの、ずるくない?」
「理由ないよりいいだろ」
三人は玄関を出て、駅、車、空港行きのバス停へ別れた。曲がった透明傘が三方向へ遠ざかる。
鍵を返した家の傘立てには、誰の名前も残っていない。それでも床には三つの雫が落ち、しばらく互いの境目をなくすように広がっていた。