返事を求めないはずだった

「返信不要って書けば、相手を困らせないから」

藤枝穂香は、別れのメールを相談してきた後輩へそう助言した。返事を求めず、気持ちだけを置いて去る。大人らしく終えるには便利な言葉だった。

久米顕人が海外研修へ出る前夜、穂香はスマホのメモに一通を書いた。

《顕人へ》

《三年間、あなたの隣が好きでした》

《明日から連絡しません。返信不要です》

送るつもりはなかった。顕人とは同じ料理教室で出会い、毎週水曜に並んで包丁を握った。彼の研修は一年。待っていると言えば重く、友人でいようとすれば自分が苦しい。水曜の帰り道に同じスーパーへ寄り、次の献立を決める暮らしが途切れるなら、先に自分から距離を置くつもりだった。

メモを共有しようとして、誤って顕人のメッセージ画面へ送信した。

既読はついた。穂香は電源を切った。

翌朝、空港へ見送りには行かなかった。ところが玄関を開けると、スーツケースを持った顕人が立っていた。搭乗時刻まで一時間しかない。

「返信不要って書いたのに」

顕人は言葉で返さず、穂香の手へ一枚のカードを置いた。料理教室の新しい受講証。オンライン併用コースで、受講者名は二人。毎週水曜、日本時間の二十時に予約されている。

続いて、三か月後の帰国便の予約画面を見せる。滞在は二日だけ。そのうち一日は《穂香と料理》と入っていた。

「一年後まで待てないから、先に帰る日を作った」

顕人は穂香の連絡先を《藤枝さん》から《穂香》へ変える。穂香も彼の搭乗券を持つ手へ指を絡めた。

タクシーが到着しても、二人は玄関先で数秒だけ離れない。運転手が一度クラクションを鳴らしても、顕人は穂香の指の形を確かめるように握っていた。顕人はつないだ手をほどく代わりに、小指へ細い赤い料理糸を結んだ。

「水曜、画面の前にいて」

穂香はうなずき、スマホの電源を入れる。誤送信した文章の下に、《返信不要は取り消します》と送った。

返信不要なら相手を困らせない。

けれど顕人は困ることを選び、その困りごとを一年分の約束へ変えてから旅立った。