返却印の向こう
岩代祈の部屋には、亡くなった友人のカメラがある。
葬儀の前日に借りたまま、三年返せずにいた。友人は「次に会うとき現像しよう」と笑っていた。中には二人で撮った最後のフィルムが入り、祈は巻き上げることもできない。母親へ連絡すれば、死をもう一度知らせるようで怖い。自分が持っていれば、まだ「借りている途中」でいられる。棚の上のカメラへ埃が積もるたび、祈は柔らかな布で拭き、借り物らしく扱い続けた。
「回音舎」の処分箱で、図書館の所蔵印が押されたクラシック盤を見つけた。ジャケット裏には紙の貸出カードが残り、昭和の日付が縦に並んでいる。最後の返却予定日は、三十年前。返却印はない。
「盗品ですか」
祈が尋ねると、店主は管理番号を確認し、台帳のコピーを出した。
「図書館の除籍品です。閉館時に払い下げられています」
返されなかったのではない。返す場所が先になくなったのだ。
盤には細かな傷が多く、試聴すると弦楽器の背後で雨のような雑音がした。店主は状態を確かめたあと、貸出カードを剥がさず、上から透明な保護布を当てた。古い日付も、押されなかった印の空白も、そのまま残す。
会計で店主は赤いスタンプを一つ押した。
〈除籍済・返却不要〉
商品管理のための印だったが、祈はその四文字を長く見た。
友人のカメラには、その印はない。借りた物だから返すのではなく、もう自分だけの時間に閉じ込めないために返したいのだと、初めて思った。
祈は連絡先を開き、友人の母親の番号を探した。三年前、葬儀の案内が届いたままになっている。文章を打っては消し、最後に事実だけを残した。
《預かったままのカメラがあります。今度、お届けしてもいいでしょうか》
送信すると、既読はつかなかった。
店主はレコードを紙袋へ入れ、貸出カードのある面を内側にしなかった。祈が見える向きにして、袋の口を一度だけ折る。
返事が来るまで、カメラはまだ部屋にある。
それでも祈は、三年ぶりに返却の途中へ立った。