鉄板ナポリタンの端
塩谷智紀は、ネクタイを外した状態で最後の来店をした。
「営業、今日で終わりました」
「明日からは?」
「ここで、本当にいいんですよね」
店主は答えず、太い麺を鉄板へ落とした。
智紀は十二年勤めた食品会社を辞めた。成績は悪くなかったが、得意先に頭を下げ、社内では数字を詰める日々に、自分の声が薄くなっていった。週に二度この店へ通い、忙しい夜に皿を運ぶのを手伝ったことから、店主に「働く気があるなら来い」と言われた。
給料は下がる。修業というほど格好のいいものでもない。洗い物と仕込みから始まり、家族にはまだ「次は飲食」としか話していない。今夜までは常連客で、明日からは見習いになる。
店には智紀一人だった。鉄板で玉葱と麺がじゅうじゅう鳴り、焦げたケチャップの甘酸っぱい匂いが広がる。店主が卵を端へ流すと、黄色い縁が泡立ち、赤い麺から湯気が立った。
「こんなの、メニューにありましたっけ」
「まかない候補」
智紀は端の卵から箸を入れた。固まりきらない部分が麺に絡み、酸味を丸くした。
「向いてなかったら、どうします」
「明日は裏口から入れ」
店主は鉄板の火を弱めた。それが返事だった。
智紀は明日のアラームを午前六時に合わせた。白いシャツではなく、買ったばかりの黒い作業靴を玄関へ出す。向いているかの判断は、せめて玉葱を一箱切ってからにする。
借金はないが、貯金も多くない。家族が納得する保証も、店が何年続く保証もない。それでも、客として悩む夜は今日で終える。
退職金の一部は、半年分の生活費として別口座へ移した。半年で包丁を握れるようになる保証はないし、店主が優しく教えるとも思っていない。智紀が知っているのは、閉店後の床が思ったより油っぽいことと、店主が失敗した皿を客へ出さないことくらいだ。明日はまず、冷蔵庫の場所とゴミの日を覚える。夢と呼ぶには地味な一日を、逃げずに始める。
鉄板の端で少し焦げた麺を口へ運ぶと、ケチャップの酸味の奥に卵の温かさが残り、舌に馴染むまで何度か噛んだ。