録り直さない声
雨宮風花は、音声メッセージを一度で送れなかった。「ええと」を消し、息継ぎを切り、語尾が弱ければ録り直す。たった十秒の連絡に十分かかることもある。会議でも、整った言葉を探しているうちに誰かが先に話した。風花が考えた案を別の人が言い直し、その人の提案として進んだこともある。訂正できなかったのは、奪われたからではなく、もっと正確に話そうと息を整えていたからだった。言い間違えないための沈黙が、何も考えていない人の沈黙に見えていた。風花の提案が後から採用されることはあったが、発言者の名前だけが議事録に残った。「同じことを考えていました」と言えば負け惜しみに聞こえそうで、いつも頷くだけだった。
地方の展示会へ出張した三泊、風花は岩槻直子と同室になった。直子は地域ラジオの取材で来ており、録音機へ向かって噛んでも笑っても、そのまま次の質問を続けた。夜に素材を聞くと、電車の音や相手の言い直しまで残っている。それでも直子は「使うところは後で決める」と、最初から消そうとしなかった。
二日目の夜、風花が「明日の集合は八時です」を五回目に録り直していると、直子がベッドから訊いた。
「最初に消す言葉、いつも何?」
「声が裏返ったところとか、余計な間です」
「消した声は、誰の耳を守ってるんだろうね」
風花が答えられずにいると、直子は指を十本広げた。
「明日までに一回だけ、十秒以内で録り直さず送ってみて」
上手に話す方法は教えず、直子は照明を消した。
翌朝、展示会の責任者から「冒頭説明を誰か担当できないか」とグループチャットに連絡が来た。風花は去年から説明資料を作っている。内容なら一番知っている。前日の設営でも質問へ答えたのは風花だったのに、来場者の前へ立つ人の資料だけを整えていた。話せないのではなく、話す前に完成を求めすぎていた。それでも、話す役は先輩が決まるのを待つつもりだった。
返信欄を開き、文字を打っては消す。隣で直子は髪を乾かしており、こちらを見ない。
風花はマイクの印を押した。
「明日の説明、最初の三分を私に任せてください」
最後の「ください」で声が少し震えた。指を離すと、再生用の三角形が現れる。聞き直せば、また欠点を見つけられる。
風花は再生せず、そのまま送信の矢印を押した。