雑炊の米を硬めに

 御厨文彦が「燈庵」へ入ると、店主は土鍋を取り出した。

「米は硬め。卵は混ぜすぎない、だったな」

 文彦は驚いた。大学院生のころ、研究室を出るのが遅くなった夜だけ鶏雑炊を頼んだ。柔らかく煮崩れた米が苦手で、形を残してほしいと頼んだのは何年も前だ。

 土鍋の中で出汁がことこと鳴り、蓋を開けると鶏と三つ葉の匂いが湯気と一緒に上がった。卵は黄色い筋を残し、米粒は白い輪郭を保っている。匙ですくうと熱い出汁が先に流れ、遅れて米の弾力が歯へ触れた。

 今日、母校から非常勤講師の依頼が来た。

 専門はデータ分析で、月に二回、社会人向けの授業を担当してほしいという。文彦はメールを読んだ瞬間、無理だと思った。会社では人前で話すたびに言葉が詰まる。質問へすぐ答えられず、会議のあとで正解を思いつくことも多い。

 断る文章はもうできている。現在の業務が多忙なため。角の立たない理由だ。

 ただ、依頼をくれた教授は、文彦が研究を辞めようとしたとき、結論を急がず一週間だけデータを見直せと言った人だった。その一週間で論文の誤りが見つかり、修了できた。

 文彦にも、学生の質問で救われた経験がある。発表中、後輩に前提条件を聞かれ、自分の計算ミスへ気づいた。答えられなかった恥ずかしさより、その場で研究を直せた安堵のほうを、今はよく覚えている。教える人間が、最初から全部知っている必要はないのかもしれない。

「まだ硬いか」

 店主が尋ねた。

「これくらいがいいです」

「なら、火を止める」

 店主は土鍋を下ろした。余熱で米は少しずつ柔らかくなる。それでも今なら、形が残っている。

 文彦は断りのメールを削除し、教授へ返信した。

〈一度、実際の授業を見学させてください。そのうえで返事をしてもよいでしょうか〉

 見学しても怖さは消えない。引き受ければ準備で休日が減る。学生に失望される可能性もある。それでも、想像の中の失敗だけで断るのはやめる。

 土鍋の底の米は、最初より少し柔らかくなっていた。鶏の出汁を吸っても粒の芯は残り、飲み込んだあと、腹の内側へ静かな熱が広がった。