雨の日だけの隣人

「雨の日くらい、隣人らしくしましょう」

鳥海美久が越してきた春、磯谷宗一郎はそう言って傘へ入れてくれた。

美久は夜勤のある看護師、宗一郎は早朝から働くパン職人。帰宅時刻はほとんど合わない。それでも雨の日だけは、美久が終バスを降りるころ、宗一郎が店の片づけを終えて同じ停留所へ来た。

一本の傘で五分歩き、マンションの前で別れる。

晴れた日は会わない。休日も知らない。けれど宗一郎が焼いた新作のパンだけは、美久の郵便受けに時々入っていた。連絡先には互いを《三〇二号室》《四〇一号室》と登録したままだった。それでも天気予報に傘の印がつくと、美久は少しだけ夜勤が楽しみになった。

一年後、美久の異動が決まった。新しい病院は県外で、月末には引っ越す。

最後の夜勤明けも雨だった。

停留所には、宗一郎がいつもの傘を持って立っていた。美久の足元にはキャリーケース。今日、このまま新幹線へ乗り、新居の鍵を受け取る。

「駅まで送ります」

「隣人の仕事は、マンションまでじゃないんですか」

「今日で隣人ではなくなるので」

冗談のような言葉に、胸が沈む。

駅へ向かう途中、宗一郎は傘の柄へ小さな紙袋を結びつけた。中にはパンと、一か月後の新幹線の切符。美久の新しい街へ向かう往復券だった。

「新しい店の休みが取れました」

「パンを届けに?」

「それだけなら宅配便で済みます」

宗一郎はそれ以上言わず、切符の予約画面を見せる。予定の件名は《美久さんに会う日》

美久はスマホを取り出し、連絡先の《四〇一号室》を消した。《宗一郎》と入力し直す。彼の画面にある《三〇二号室》も、自分の指で《美久》へ変えた。

改札前で傘を閉じると、二人の肩が離れる。美久はその前に、宗一郎の空いた手を取った。

「次は雨じゃなくても来てください」

「晴れていたら、相合傘ができません」

「そのときは、傘の代わりにこれで」

美久は指を絡めたまま、切符を受け取った。

雨の日くらい隣人らしくするための五分は、その朝、晴れの日にも会いに来る二人の予定へ変わった。