雨宿りの鍵
交番の灯を見つけたとき、私は初めて後ろを振り返った。
雨の歩道に、黒い傘はもう見えない。駅からずっとついてきた男を撒けたのだ。制服の警察官は震える私を中へ入れ、シャッターを半分下ろした。
「ここなら安全です」
その声に、膝から力が抜けた。
壁の勤務表は全欄が空白で、日付は三か月前のままだった。拾得物箱には何もなく、机には同じ書式の白紙が束で置かれているだけだった。
机の電話を借りようとしたが、受話器から発信音がしなかった。警察官は大雨で回線が切れたのだと言う。
胸の識別番号は、数字の部分だけ爪で削ったように曇っていた。
「相手の特徴を教えて」
私は黒いコート、黒い傘、右手の銀色の指輪を伝えた。警察官は左手でメモを取り、右手を机の下に隠した。
男は私の住所を調書へ書いた。私は番地まで話していない。指摘すると、身分証を確認したと言う。財布はまだ私の鞄の底にあった。
奥の休憩室で待つよう勧められた。扉は厚く、内側に鍵穴がない。
「パトカーが来るまでです」
机の下には防犯ブザーの配線があったが、切断面は古く錆びていた。私は入口の住所表示を思い出そうとした。雨に濡れた看板には、交番名が最初から書かれていなかった。
私は入る前に、傘立てを見た。一本だけ刺さった黒い傘から、雨水が床へ落ちている。持ち手には、駅で振り返ったとき見えた白い傷があった。
逃げようとした瞬間、シャッターが床まで下りた。
警察官が右手を出す。銀色の指輪が光った。
私は椅子を蹴り、窓を叩いた。外から拡声器の声が近づいてくる。
『付近で警察官の制服が盗まれました。黒い傘を持つ男に注意してください』
男は机の電話線を足で引き抜き、奥の扉を開けた。そこにはベッド、水、壁に貼られた私の写真があった。交番の休憩室ではない。空き店舗をそれらしく作った部屋だった。
「ずっと守ってあげると言っただろう」
男が拾った鍵で、私の背後の錠を閉める。
雨宿りのために入った場所は、雨がやんでも出られない。
追ってきた黒い傘は、最初からこの灯へ私を追い込んでいた。