雪庇を落とす音
午前六時三十四分、榛葉鑑は雪崩ビーコンの表示を確かめた。〈時間退避・残り一回〉。先を行く有働玄馬が、オレンジ色のカラビナを鳴らす。
「ロープ、張るぞ」
六分後、稜線の雪庇が崩れ、玄馬だけが谷へ落ちる。鑑は八回、六時三十四分へ戻った。
ロープを短くすれば二人とも引かれた。長くすると玄馬が岩へ届かない。北側へ迂回した回は、別の雪板が割れた。撤退を提案しても、玄馬は山頂の自動観測所に残した研究試料を回収すると言った。あれを失えば三年分の調査が無駄になる。
成功条件は六時四十分、玄馬のビーコンが稜線より山側で移動していること。最後の退避を失敗すれば、埋没位置だけが記録される。
最終試行。
「ロープ、張るぞ」
「その前に落とす」
鑑は雪庇へ向け、雪崩制御用の小型発破を設置した。本来は人家側へ雪を流さないための装備だ。ここで起爆すれば、二人の前を雪崩が通り過ぎる。ただし谷底の無人観測所と、国際共同研究の試料はすべて埋まる。
玄馬が腕をつかんだ。
「研究者が自分で証拠を潰すのか」
「遺体を試料に加えたくない」
鑑は起爆した。低い音のあと、白い稜線がゆっくり折れた。観測所のアンテナが飲まれ、三年分の数字が雪煙へ消える。
六時四十分。玄馬のビーコンは山側で動いていた。時間は戻らない。
帰国後、鑑は無許可発破と研究資産破壊の責任を一人で負い、登山許可も職も失った。玄馬は抗議したが、鑑は共同実行者の欄を空白にした。
調査委員会で玄馬は共同判断だったと証言した。鑑は発破スイッチの指紋と、単独で入力した起爆記録を示し、証言を退けさせた。二人とも職を失う結末だけは避けたかった。玄馬から届いた新しい登山計画には、鑑の名だけがなかった。鑑は返信せず、山岳地図から観測所の印を消した。雪が解けても、埋まった試料を掘り返す申請は出さなかった。
春、谷から壊れた観測機の一部が見つかった。鑑は回収依頼を断った。数字を拾い直せば、あの起爆を研究の成功へ変えてしまう気がした。
証拠袋の中で、オレンジのカラビナが乾いた音を立てた。山で聞いた最後の小さな鐘のようだった。