青いおはじき
古い木造アパートの管理人室には、青いおはじきが一枚あった。
子どもの忘れ物だと思い、引き出しへ入れても、夕方になると廊下へ転がり出る。
おはじきは、その日一度も誰とも声を交わさなかった住人の扉の下へ入った。
最初は二階の老人だった。
妻を亡くし、買い物も通信販売で済ませている。
管理人が返しに行くと、
「私のじゃない」
と不機嫌に言った。
その一言で役目を終えたのか、おはじきは翌朝、管理人室へ戻っていた。
次は在宅勤務の若者。
画面上の会議はあったが、声を出さず文章だけで参加した日だった。
次は、夜勤続きの看護師。
起きている時間に誰とも会わなかった。
次は管理人自身の机の下へ転がった。
住人へ挨拶はしても、決まり文句しか言わず、自分の言葉を一つも話していない日だった。
管理人は、おはじきを返す口実で扉を訪ねるようになった。
「今日、これがそちらへ」
それだけで、相手は必ず一言返す。
だが老人の扉へ三日続けて入ったとき、管理人は心配した。
訪ねても返事がない。
合鍵で入ると、老人は熱を出して動けなくなっていた。
発見が早く、入院せずに済んだ。
退院代わりに、老人は管理人室へ煮物を持ってきた。
若者も米を持ち、看護師は夜勤明けに味噌汁を作った。
夕方の廊下で、簡単な食事会が始まった。
「おはじきのせいで、静かに暮らせない」
老人は文句を言いながら、毎回いちばん早く来た。
食事会は毎日ではない。
一人でいたい日もある。
管理人は、おはじきが扉へ入ってもすぐ訪ねず、夜まで待つようにした。
孤独と静けさを、同じものにしないためだった。
建物の取り壊しが決まり、住人たちは別々の場所へ移った。
最後の日、青いおはじきは誰の扉にも行かず、廊下の中央で止まった。
全員がそこへ集まっていたからだ。
管理人はおはじきを四つに割れないので、写真を撮り、皆へ送った。
本物は新しい集合住宅の管理人室へ持っていった。
夕方、見知らぬ部屋の扉へ青い光が転がっていく。
管理人は少し待ち、湯を沸かした。
今日まだ誰にも届いていない声を、一言だけ迎えに行くために。