靴底が乾くまで
陸上部の娘は、県大会を前に練習へ行かなくなった。
母は自分も元選手で、娘の速さを誰より信じていた。
「ここで休んだら後悔する」
そう励ますほど、娘は黙った。
雨の日、靴店でもらった翻訳粉を濡れた運動靴へ振りかけた。
靴底が乾くまで、その足が行きたかったのに行かなかった場所を一か所だけ話すという。
右の靴が言った。
「音楽室」
左の靴も同じだった。
娘は毎日、練習場へ向かう途中で音楽室の前を通る。
吹奏楽部へ入りたいのか。
母は問い詰めそうになり、やめた。
靴から盗み聞きしたことを、娘へ正解のように差し出したくなかった。
次の雨の日、また粉を使った。
「川のベンチ」
娘は練習をさぼり、そこへ行きたかったらしい。
母は不安になった。
走ることが嫌なのか。
誰かにいじめられているのか。
翻訳粉を使うほど、本人へ聞くのが怖くなった。
三度目、娘がずぶ濡れで帰宅した。
靴へ粉をかける。
「家」
母は息をのんだ。
娘は家へ帰りたかったのに、玄関前を通り過ぎ、雨の町を歩き続けたのだ。
母は靴を隠さず、粉の袋を食卓へ置いた。
「勝手に聞いた。ごめん」
娘は怒った。
「私に聞けばよかったじゃん」
「聞いたら、走れって言いそうだった」
「今も思ってるでしょ」
母は否定できなかった。
娘は音楽室へ入りたいのではなかった。
大会のスターター音を聞くと、胸が苦しくなるようになり、音楽室の練習音でかき消したかっただけだった。
川のベンチでは、走らない時間を作りたかった。
家へ帰れなかったのは、母の期待を裏切る顔を見たくなかったからだ。
二人で顧問と医師へ相談した。
娘は大会を欠場した。
母は悔しく、娘も悔しかった。
休めばすぐ楽になるわけではない。
数か月後、娘は短い距離から走り始めた。
陸上部へ戻るかは決めていない。
音楽室では、呼吸を整えるため打楽器の練習を聞く。
翻訳粉は捨てた。
雨の日、母は濡れた靴を新聞紙の上へ置く。
行きたかった場所を靴へ尋ねず、娘へ聞く。
「今日はどこまで行けた?」
「途中まで」
「明日は?」
「明日決める」
足の本音は、乾くまで待たなくても、急かさなければ本人の口から出てくるようになった。