音の鳴らない鈴は一人だけ起こす

王都の全員が、正午に眠りへ落ちた。

市場の商人も、城壁の兵も、馬車を引く馬まで動かない。上空には夢魔王の紫の月が浮かび、眠る者の記憶を一つずつ吸い上げている。夕刻までに月を落とせなければ、人々は目覚めても自分の名前さえ思い出せない。

鐘楼の修理中だったセシルだけが、耳栓のおかげで最初の歌を聞かずに済んだ。

夢魔王の分身を階段で倒すと、灰色の小箱が一つ落ちた。開けられるのは一度きり。中には、舌の付いていない小さな鈴が入っていた。

【N:音の鳴らない鈴】

【起こしたい相手の名を呼んで振ります】

王や大魔術師を起こしても、紫の月には届かない。月を支えているのは王都地下の守護機関だが、それは百年前から眠り、起動名を知る者もいなかった。

セシルは鐘楼の壁に刻まれた古い献辞を思い出した。

――この都を眠らず見守る、暁炉アウローラへ。

彼は舌のない鈴を握り、都でたった一つ、人ではない名を呼んだ。

「アウローラ。朝だ」

鈴を一度振る。

音はしなかった。

代わりに、足元の石が温かくなる。地下深くで巨大な歯車が一枚ずつ噛み合い、止まっていた水路へ金色の光が走った。塔の尖端から朝日の柱が立ち、昼空に浮かぶ紫の月を内側から照らす。

夢魔の月は悲鳴も上げられず、薄い影となって消えた。

地下で目覚めた暁炉は、眠る市民一人ひとりへ細い光の糸を伸ばした。夢魔が記憶を吸うため結んでいた紫の糸だけを焼き切り、本人の夢は傷つけない。子どもは楽しい夢の続きを覚えたまま、兵士は持ち場を忘れずに目を開く。

紫の月から奪われた名前が金色の文字となって降り、それぞれの胸へ正しく戻った。

市場では商人が値段の続きを叫び、城壁では兵が瞬きをする。眠っていた時間は一呼吸ほどにしか感じなかったらしい。誰の名前も失われていない。

セシルの手の中で、無音の鈴だけが一度、胸へ響く音を鳴らした。

【都市守護機関の真名呼び出しに成功】

【最高希少度SSS《魂名覚醒鈴・ただ一人へ届く声》――世界初起動を記録】