駐輪場の合鍵
駐輪場の契約が切れるまで、あと十分だった。
研吾は錆びた青い自転車の前で、沙月を待っていた。二人で半分ずつ金を出した自転車だ。大学から駅まで、朝は沙月、夜は研吾が使った。雨の日、籠に一枚しかないレインコートを入れ、先に使ったほうが相手へ残すのが暗黙の決まりだった。別れてから一年、どちらも乗らず、タイヤだけが萎んでいる。
「譲渡の手続き、スマホでできるって」
「じゃあ、やろう」
沙月がアプリを開き、車体番号を入力する。認証待ちの画面で、以前の入力内容が復元された。メッセージ欄に未送信の下書きが残っている。
〈あの日、追いかけてくれたら戻った。合鍵はまだ持ってる〉
宛先は研吾。作成日は、沙月が部屋を出た夜だった。
研吾は思わず彼女の顔を見た。
「鍵、持ってたの」
「一週間だけ」
「俺は、返したと思ってた」
「玄関の皿に置いた。でも駅まで行って、取りに戻った」
「俺、その夜ずっと台所にいた」
「寝室の灯りしか見なかった。もう寝たんだと思った」
壁一枚と消した照明が、追いかけなかった一年に変わった。
あの夜、研吾は追いかけなかった。沙月が「一人で考えたい」と言った言葉を、そのまま受け取った。彼女の意思を尊重したつもりだった。
「追ったら迷惑だと思った」
「迷惑でも来てほしい夜ってあるよ」
「言ってくれれば」
「言わなくても分かってほしい夜もある」
契約終了の警告が画面に出る。あと六分。
研吾は自転車のハンドルを握った。ベルの傷、籠に残った青いゴム紐、二人で濡れた雨の日。どれも、言葉にしなかった期待ばかりだった。
「今は、合鍵は?」
「返した。郵便受けに」
「いつ」
「新しい人と暮らすって決めた日」
研吾は手を離した。
沙月は下書きを削除し、譲渡先に自分の新住所を入力した。自転車を持っていくのは彼女だった。
認証が通る。残り二分。
研吾はポケットからチェーンロックの合鍵を出した。捨てられずに持っていた、もう一方の鍵だった。
「これも」
「まだ持ってたんだ」
「一週間どころじゃなかった」
沙月は少しだけ笑い、掌を開いた。
研吾は合鍵を返し、青い自転車から手を離した。