鴨の川辺のシナモンロール

 川沿いのベーカリー「結び目」は、午後四時に最後のシナモンロールを焼く。

 窓の外には二羽の鴨がいて、いつも並んで流れを遡っていた。店主の苑子は勝手に、丸い方をパン、細い方を耳と呼んでいる。

 浅羽灯子は、予約していた結婚式を取りやめた帰りに店へ入った。

 誰かに裏切られたわけではない。二人で話し合い、結婚しない方が互いに穏やかでいられると決めた。それでも式場の担当者へ頭を下げるとき、自分たちが失敗作になったような気がした。

「いつもの、ありますか」

「ちょうど焼けます」

 苑子はオーブンの扉を開けた。

 熱い空気と一緒に、バターとシナモンの香りが広がる。渦巻きの生地には砂糖が溶け、端が飴色に焦げていた。上から白いアイシングを細く垂らすと、雪のようにゆっくり固まる。

 灯子は紙ナプキンを何枚も敷き、指でちぎった。内側の生地は柔らかく、湯気を抱えて伸びた。

「形が、ほどけそうですね」

「巻いてあるだけですから」

「結び目って店名なのに」

「結び目は、ほどけるためにもあります」

 窓の外で、鴨の耳が流れに押され、パンから離れた。灯子は思わず目で追う。耳は下流へ流されたあと、岸の浅瀬を回り、別の角度からパンの隣へ戻った。

「離れても、また並ぶんですね」

「戻らない日もありますよ」

 苑子はミルクを温めながら言った。

「でも、どちらでも鴨は鴨です」

 灯子は元婚約者へ送るつもりだった長い文章を開いた。謝罪と感謝を何度も書き直してある。読み返し、最後の一文だけ残した。

〈ちゃんと話して決められてよかった。預かっている本は、来週返します〉

 返事はすぐ来た。

〈うん。こっちの合鍵も、そのとき返す〉

 簡素なやり取りが、今の二人にはちょうどよかった。

 シナモンロールの中心は、外側より甘かった。灯子は最後のひとかけをゆっくり噛み、紙に落ちた砂糖まで指先で拾った。

 店を出る頃、川面には夕日の道ができていた。二羽の鴨は少し離れて、それぞれの速さで上流へ向かっている。

 マフラーの内側にシナモンの匂いが残った。灯子はそれを吸い込み、式のない春にも、ちゃんと朝は来ると思った。