返本不可の一文字
風待出版の営業補助、大鋸谷杏は、書店から届く返品伝票を束ねていた。
決算会議では、話題作三十万部の出荷が全量売上として計上されていた。金額は四億八千万円。営業局長は、主要書店チェーンとの契約が「返本不可」だからだと説明した。
杏は配布資料の契約書を見て、息を止めた。発売直後は増刷の電話で編集部が沸いたが、二週目から返品の問い合わせが増えた。杏は倉庫の空きを確保するため、書店ごとの返本予定数を毎日更新していた。
「原本は、返本可です」
営業局長が即座に言い返す。
「今年から買い切り契約に変わった」
「この一文字は、後から足されています」
スクリーンには〈返本不可〉とある。杏が書店から受け取った複写には〈返本可〉としかない。
契約を受け取った日、書店担当者は「売れ残れば返せるから三十万部を置ける」と言っていた。杏はその言葉を議事メモに残し、営業局長も確認済みの印を押している。
「複写が薄くて『不』が写らなかっただけだ」
杏は原本を開いた。書店側の角印は「返本可」の三文字にまたがっているが、先頭の「不」は印影の外側に、わずかに傾いて印字されていた。フォントも一段小さい。
「印鑑を押した時点で、『不』はありませんでした」
営業局長は、書店と口頭合意があると主張した。
杏はその朝届いた返品予定表を出した。初回だけで十二万部。契約番号も一致している。
「書店は買い切りだと認識していません」
「返品されるかどうかと、今期の売上は別だ」
「返本権がある委託販売です。店頭で売れるまで、当社の在庫です」
監査人が一文字を拡大すると、「不」の下にだけ印刷機の微細な黄色点があった。決裁資料を出力した本社プリンターの識別パターンで、書店が契約を作成した日には存在しない。
社長は杏を見た。
「本を売る会社が、一文字で沈むのか」
杏は返品予定表の十二万という数字を指した。
「一文字で浮かせていたんです」
議長は四億八千万円の売上承認欄を二重線で消した。
「原本確認が済むまで、決裁を止める」