いちばん怖がっていた人へ

土岐野和泉が歯科医院を開ける木曜の朝、受付に小さなコスモスが届いていた。

花瓶は使い捨てのうがい用カップ。札には毎回、同じ丸い字で〈いちばん怖がっていた人より〉とだけ書かれている。受付の消毒液の匂いに、花の青い香りが混じった。

院長の安西は、自分が治療した子どもだと言った。歯科衛生士の九重は、先月退職したスタッフではないかと考えた。和泉には、診察室へ入れず受付で二時間泣いた成人患者・藤代の顔が浮かんだ。

花は一週ごとに少し大きくなった。つぼみ、半開き、掌ほどの花。和泉は受付日誌の余白へ絵を描き、捨てずに残した。誰かが怖さを減らしている途中なら、こちらから名前を暴くことが正しいのか迷っていた。

手掛かりは三つあった。茎を結ぶ淡い青の糸は、恐怖心の強い患者にだけ渡す香り付きフロス。カップには、和泉が会計後に貼る星形シールの細かなラメ。そして花は、藤代がかつて予約していた木曜の午前に届く。

四週目、和泉は入口の自動ドアを切って待った。ガラスの向こうで、花を持った藤代が立ち止まった。

半年前、藤代は治療椅子を見るだけで震え、予約を三度取り直した。四度目には受付から動けなくなった。和泉は急かさず、診療時間が終わるまで隣に座り、「今日はここまで来たので合格です」と星のシールを渡した。

その後、藤代は受付まで、診察台まで、麻酔までと、小さな目標を一つずつ越えて治療を終え、駅前の花店へ再就職した。けれど泣いていた自分を覚えられているのが恥ずかしく、名乗れなかった。

「待ってくれたことが、うれしかったんです。怖いままでも来ていいって、初めて思えたから」

和泉は自動ドアを開けた。

「今日は治療ですか。それとも配達ですか」

「定期検診と、配達です」

藤代は笑い、今度は自分の手でコスモスを受付へ置いた。

診察を終えたあと、和泉は会計皿にミントタブレットを二粒のせた。一粒を藤代へ渡し、自分も口に入れる。

「合格は、今日で更新ですね」