げそを噛むあいだ
川西迅は、明日の午前四時半に起きる。鉄道会社の保線部門へ転職し、始発前の線路を点検するためだった。
保線の採用試験に受かった夜、迅は恋人へ真っ先に電話した。『やっと好きなことに近づける』と言うつもりだったのに、先に給与が下がることを説明し、生活が苦しくなるかもしれないと並べた。恋人の不安そうな声を聞くうち、自分の喜びまで隠した。
昨日までは百貨店の紳士服売り場にいた。客の体形を見てスーツを選び、裾を測り、笑顔で見送る仕事は嫌いではなかった。ただ、売上目標のために必要のない二着目を勧める自分が、年々うまくなっていくのが怖かった。
子どものころ、終電後に線路を歩く作業員を窓から見て以来、迅はあの仕事を忘れられなかった。求人を見つけた日は、売り場の休憩室で何度も募集要項を読み返した。
交際中の恋人は、保線の仕事を聞いて「接客から逃げただけじゃない」と言った。迅は腹を立て、「危険な仕事を軽く見るな」と返した。明日が初日なのに、二日間連絡を取っていない。
居酒屋「鉄路」で、店主はいかげそを鉄板へ置き、バターを落とした。足が縮んで、きゅっ、きゅっと音を立てる。焦げた醤油とバターの濃い匂いが広がり、白い湯気の中で七味が赤く光った。
「急いで食うと、顎が疲れるぞ」
店主は長い一本を、切らずに皿へ載せた。
迅は恋人への返信を考えた。自分は逃げたのではない、と説明したい。鉄道が好きだったこと、夜の作業動画を何年も見ていたこと、点検の資格を取るつもりであること。だが、それを並べれば勝ち負けの話になる。
迅はメモ帳を開き、『逃げただけと言われて腹が立った。でも、どうしてこの仕事を選んだかは、まだちゃんと話してない』と書いた。送信はしない。明日の初勤務が終わったら、制服のまま会いに行き、その文を口で言う。まずは寝坊せずに現場へ立つ。
仲直りできるかは分からない。恋人が早朝勤務の生活を受け入れるとも限らない。迅はいかげそを噛んだ。何度噛んでもすぐには切れず、そのあいだにバターの熱と醤油の香ばしさがゆっくり舌へ移った。