ひとりで開ける箱

桑折結花は、兄へ届けたい言葉があった。

父の臨終のとき、兄の慎悟は病室にいなかった。三年前、父と大喧嘩して家を出たきり、連絡先も住所も教えなかったからだ。

父は最後に、酸素マスクをずらして言った。

「慎悟のカレー、また食いたかったな」

結花は葬儀のあと、兄を探した。共通の友人に頼み、昔の勤務先へ電話し、手紙も出した。返事はない。

雨の日、路地の店に《願いを小包にします》とあった。

「兄に、父の最後の言葉を届けてください」

店員は茶色い箱を出した。

宛名は空白なのに、紐を結ぶと箱がふっと軽くなり、机から消えた。

「届くんですか」

「受取人が一人になったときだけ開きます」

それきりだった。

四か月、何も起きなかった。

届かなかったのか。届いても、兄は一人にならない暮らしをしているのか。あるいは箱を開けても、何も感じなかったのか。結花は答えのない想像ばかり増やした。

父の家を売ることにした最後の日、台所で古い鍋を捨てようとすると、玄関が開いた。

慎悟が立っていた。

痩せ、髪が伸び、見知らぬ上着を着ている。手には、あの茶色い箱があった。

「昨日、開いた」

慎悟は箱を食卓へ置いた。

中には何もない。

「何が入ってたの」

「匂い」

「匂い?」

「俺が作ったカレー。親父、まずいまずいって水ばっか飲んでたやつ」

慎悟が笑い、すぐに顔を伏せた。

「声も聞こえた。『また食いたかった』って」

結花はうなずいた。

「本当に言ったよ」

「なんで、もっと早く」

「住所も知らなかった」

「探せただろ」

「探したよ!」

二人の声が、空の家に響いた。

父がいれば、うるさいと怒鳴っただろう。そう思うと、結花は急に笑ってしまった。慎悟もつられて笑い、泣いた。

その夜、二人はまだ残してあった鍋でカレーを作った。

慎悟は昔と同じく、香辛料を入れすぎた。結花は水を飲みながら「まずい」と言った。

「じゃあ食うな」

「また食べたくなるかもしれないから、味を覚えとく」

食後、茶色い箱は見当たらなくなっていた。

誰かと一緒になったからだ、と結花は思った。

開けるときだけ、一人であればよかったのだ。