カルテの余白

神崎環は、父の診察室で弁当を二つ広げた。

父は医師で、環も医学部へ進んだ。六年目の春、国家試験を受けずに休学し、そのまま退学届を出した。今日、父へ話すために来たのは、病院図書室の採用が決まったからだ。

「司書?」

父は卵焼きを口へ運ぶ前に聞き返した。

「医学情報を扱う司書。来月から」

「医者になれない人間が、医者の本を並べるのか」

環は箸を置いた。父の机には、幼いころ白衣を着せられた写真が挟まれている。裏に〈未来の院長〉と父の字で書かれていた。

「なれないんじゃなくて、ならない」

「同じことだ」

父はカルテの余白へ、無意識に何かを書き始めた。環の受験校も、専攻も、研修先も、こうして父の文字から始まった。

書かれた文字を断るより、従うほうが早かった。環はその速さを自分の適性だと思い込み、違うと気づいたときには白衣のポケットへ学生証が入っていた。

環は父の手元からボールペンを取らず、自分のペンで退学受理証明のコピーへ日付を書いた。

「これから私の進路を、患者さんや親戚に話さないで」

「恥ずかしいからか」

「お父さんが『本当は医者になるはずだった』を前置きにするから」

父のペン先が止まった。

「事実だろう」

「過去の予定で、今の仕事を小さくしないで」

窓の外で救急車が一台、音を消して入ってきた。父は弁当の蓋を閉じかけ、また開いた。

「図書室で、何をする」

「医師や患者さんが必要な情報を探す。論文も調べる」

「診断はしない」

「しない。それをしたいとも言ってない」

父は卵焼きを食べ、しばらく咀嚼した。

「白衣は着るのか」

環は少し笑った。

「たぶん着ない」

父は落胆したように見えたが、写真を机の引き出しへしまった。破りもせず、飾り続けもせず、見えない場所へ移しただけだった。

帰り際、環は診察室の合鍵を机へ置いた。学生時代、いつでも勉強に来られるよう渡されたものだ。

「必要なら受付から入る」

父は鍵を拾い、「図書室の利用方法が決まったら教えろ」と言った。

環は「病院の手続きとしてなら」と答えた。

親子の話と仕事の依頼を、同じカルテへ書かせないための返事だった。