コーヒー一杯ぶんの差

宮坂灯は、二社の給与を時給に直してみた。

内定をくれた会社の月給は、今より二万円低い。けれど通勤は片道十五分で、残業は月平均五時間。現在は片道一時間、残業は二十五時間。電卓を叩くと、自由になる一時間あたりの差は、駅前のコーヒー一杯ぶんにも満たなかった。

「二十九で年収下げるの?」

転職経験のある友人から届いたメッセージを、灯は何度も読んだ。悪意はない。実際、昇給や退職金まで考えれば、下げないほうが賢い。

机には二枚のレシートがあった。一枚は今朝、乗換駅で買った冷めたコーヒー。もう一枚は内定先の近くで飲んだコーヒーで、面接までの四十分、窓際で本を読んだ。その店ではカップがまだ温かいうちに飲み終えた。

転職理由を「ゆとりが欲しい」と言うと、逃げのように聞こえる。やりたい仕事でも、夢の会社でもない。ただ、平日の夜に料理をし、図書館へ寄り、眠る前に一日を終えたい。

電卓の数字だけなら、転職しないほうが安全だった。灯は昇給率を仮定し、五年分まで計算したあと、全部消した。五年後の金額を守るために、来週の水曜日を何度でも差し出す計算には、自分の疲れが一円も入っていなかった。

内定承諾書の福利厚生欄を見ながら、灯は不安になった。空いた時間を立派に使えなかったらどうする。資格も取らず、副業もせず、ただ眠ってしまったら、二万円を捨てただけになるのではないか。

二つの定期券代も計算すると、差はさらに縮んだ。けれど灯が選びたいのは、安い未来ではなく、短い帰り道だった。

それでも、時間は成果を出したときだけ価値があるわけではない。そう信じることまで会社に証明してもらう必要はなかった。

灯は承諾書へ署名し、友人へ〈下がる。でも行くことにした〉と返した。言い訳の長文は添えなかった。

翌月から使う定期券を申し込むと、区間は三駅だけだった。今までの定期券と並べると、あまりに短くて心細い。

灯は二枚のレシートを家計簿に貼った。得をした証拠ではない。自分が何にお金を払い、何を取り戻そうとしたのか、あとで忘れないためだった。