スタンプのない返事
紀花が休日の朝にコーヒーを淹れると、母から笑顔の猫のスタンプが届いた。
続けて、〈今日、実家の段ボール全部運べるよね?〉。
猫は両手で大きな丸を作っている。頼みではなく決定なのに、可愛い顔が断りにくくしていた。
紀花は先週、二箱なら手伝うと伝えた。母は〈助かる〉と返し、そのまま「全部」に広げたのだ。
〈二箱なら運ぶ〉
母から、涙を流すうさぎのスタンプ。
〈お母さん一人じゃ無理〉
紀花はいつものように、困った犬のスタンプを探しかけた。冗談めかして謝れば、母は機嫌を直す。ただし結局、全部運ぶことになる。
スタンプ一覧を閉じた。
〈二箱です〉
文字だけ送る。
〈冷たくない?〉
今度は凍えているペンギンが来た。
紀花はコーヒーを一口飲んだ。苦い。けれど、画面の動物を慰める義務はない。
〈冷たいかどうかではなく、できる量の話をしてる〉
〈残りは業者を頼もう〉
母は怒った熊を送り、しばらく沈黙した。紀花は引っ越し業者の小口便を調べ、料金表の画像を一枚送る。
〈私が二箱。残りはこれなら手配できる〉
十分後、母から初めてスタンプではない返事が来た。
〈じゃあ、食器と本の二箱をお願い〉
〈了解〉
紀花もスタンプをつけなかった。
実家へ着くと、玄関に二箱だけ並んでいた。母は不機嫌そうだったが、「全部」とは言わなかった。紀花は一箱ずつ持ち上げる。
前の片づけでは「三箱だけ」が、実家へ着くと本棚一つ分になった。母は笑顔の熊を送り、〈せっかく来たんだから〉と作業を増やした。紀花が疲れた顔をすると、泣く猫のスタンプで〈親不孝〉を冗談にした。今日はチャットの上に、先週の〈二箱なら〉が残っている。紀花はその一文を引用返信し、約束を画面の中央へ戻した。
母が二箱目の底を支えようと手を出した。紀花は拒まず、反対側を持ってもらった。手伝い合うことと、頼まれた量を増やすことは別だった。二人で車まで運び、空いた玄関に三箱目は出てこなかった。
可愛いスタンプの代わりに、箱の重さがはっきり腕へ伝わる。二箱は二箱だった。愛情を測る単位に変えず、約束した量だけ車へ運んだ。