ゼッケン二十九番
故郷の河川敷マラソンから、参加案内が届いた。
十キロの部、ゼッケン二十九番。
朔良が申し込んだ覚えはなかった。案内の下に、〈高校同窓枠として仮登録されています。参加意思を電話でお知らせください〉とある。昔の陸上仲間が推薦したらしい。
二十九という数字に、朔良は笑えなかった。来月の誕生日で三十になる。東京の部屋を引き払い、故郷へ戻るかどうかを決める期限も、その大会の翌日だった。
クローゼットには二足のランニングシューズがある。高校時代の白い靴は黄ばみ、底が硬い。東京で買った黒い靴はきれいだが、三回しか履いていない。どちらにも、走り続けた証拠はなかった。
朔良は大会事務局へ電話した。
「出るかどうか、まだ決められなくて」
事務局の女性は、仮登録だから断っても構わないと言った。声があまりに事務的で、朔良はほっとした。町全体が自分を待っているような物語は、最初から存在しなかった。
それでも電話を切れず、「制限時間は?」と聞いた。
「十キロで九十分です。途中棄権もできます」
帰郷にも制限時間があると思っていた。三十歳まで。年度末まで。部屋が空いているうちに。けれど、それは誰かが決めた大会規則ではない。自分が焦りに番号をつけただけだった。
朔良は参加すると伝えた。ただし、帰郷の決断とは結びつけないことにした。大会で気持ちよく走れたら戻る、苦しかったら残る、という占いにはしない。
当日、朔良は黒い靴を履いた。白い靴は袋に入れ、スタート地点の回収箱へ持っていった。古い靴を捨てれば過去を越えられるとは思わない。ただ、走れない靴をお守りにするのをやめたかった。
七キロ地点で歩き、八十九分でゴールした。拍手はまばらだった。
ゴール後、スマートフォンに二件の通知が届いた。地元の友人からは〈おかえり〉、東京の友人からは〈戻ったら打ち上げしよう〉。どちらにもすぐ返事をせず、朔良は息が整うまで河川敷に座った。片方の言葉だけを未来に採用する必要はなかった。
翌朝、空き住宅の申込書に「入居希望」と書いた。完走したからではない。遅い自分のまま戻ると決めたからだ。
ゼッケン二十九番は、記念に残さずゴミ箱へ入れた。三十歳から始める物語に、きれいな番号は要らなかった。