ノックは二回

美琴がオンライン会議を始めて五分後、母が襖を開けた。

「コーヒー、ここに置くわね」

画面の中で部長の説明が止まり、同僚が笑顔のまま視線をそらした。

「ごめんなさい」と美琴がマイクを切るより先に、母は机の横まで入ってきた。「砂糖、二つでよかった?」

会議を終えると、美琴は襖を閉めた。廊下で待っていた母が言う。

「家で仕事するなら、それくらい仕方ないでしょう」

「入る前にノックして」

「昔からノックなんてしてないじゃない。美琴ちゃんの部屋でしょう」

帰省中も仕事があると伝えたとき、母は「家にいながら働けるなんて便利」と喜んだ。けれど母にとって、画面の向こうの職場より、娘の部屋へ入る権利のほうが古くて強かった。

美琴はメモ用紙に太い字で書いた。

〈ノック二回。返事があるまで開けない〉

襖の外側へ貼る。

「他人行儀ね」

「返事をするのは私。開けるのも私」

「コーヒーまで拒むの?」

「コーヒーはほしい。勝手に入られるのは嫌」

母はカップを盆ごと持ち去った。

午後、次の会議が始まった。十分ほどすると、廊下で足音が止まる。

とん、とん。

襖は開かなかった。

美琴はマイクを切り、「今は駄目」と答えた。足音は遠ざかる。胸が速く打った。たったそれだけのことなのに、ひどく悪い娘になったような気がした。

会議が終わって襖を開けると、盆が廊下に置かれていた。コーヒーは冷め、砂糖は一つだけ添えてある。母の姿はない。

夕方、また二度音がした。

「どうぞ」

母は襖を開けず、外から聞いた。

「夕飯、七時。仕事は終わる?」

「終わる。教えてくれてありがとう」

襖の向こうで、小さく鼻を鳴らす音がした。

仕事を片づけて廊下へ出ると、母は台所で砂糖壺を閉めていた。『一つでよかったのね』と聞く。美琴は『今は一つ。変わったら言う』と答えた。母はまた『面倒ね』と呟いたが、夕飯を知らせるときも襖の前で足を止め、二回だけ指を鳴らした。

美琴は冷めたコーヒーを飲んだ。甘さは足りなかったが、次の一口を口へ運ぶまで、誰も部屋に入ってこなかった。