レモンを絞らない唐揚げ

 笹森創の退職届は、送信ボタンの手前で止まっていた。

 大型案件の納期が遅れ、部長は全員宛てのメールで「進行担当の確認不足」と書いた。進行担当は創だった。けれど遅れの原因は、営業が受注後に仕様を変えたことと、部長が追加人員を却下したことだ。返信欄には同僚たちの「承知しました」が並び、創だけが事故の名前になった。個別のチャットでは「大変だったね」と届いたが、全員宛ての場で訂正する人はいなかった。創自身も、そこで反論できなかった。

 会社を出て入った居酒屋には、彼のほかに客はいなかった。

「唐揚げを一皿」

 鶏肉が油へ沈むと、細かな泡が激しく弾けた。にんにくと醤油の匂いが店内へ広がり、揚げたての衣を割ると、白い湯気と肉汁が指先近くまで上がった。

 皿の端にはレモンが添えられていたが、創は触れなかった。熱い唐揚げをそのまま噛む。衣の鋭さと、下味の濃さが舌へ重なった。

「絞らない派ですか」

 店主が聞いた。

「今日は、何か足すのが嫌で」

「そのままでも味はついてます」

 創は退職届の画面を開いた。今すぐ送れば、少なくとも今夜は終わる。会社の端末を開く必要も、明日の朝に部長の顔を見る必要もなくなる。だが、怒りの勢いで会社を辞めれば、部長の説明だけが記録として残る。

 明日は、仕様変更のメールと人員申請の履歴を時系列に並べよう。関係者を入れた振り返り会議を依頼し、議事録を残す。それでも責任を押しつけられるなら、その記録を持って転職活動を始める。

 退職届は下書きへ戻した。辞めないと決めたわけではない。むしろ、記録を揃えたあとで辞める可能性は高い。ただ、怒りだけを退職理由に残せば、自分まで事実を雑に扱うことになる。ただ、誰かの味付けのまま辞めるのをやめただけだ。

 会議で同僚が黙る可能性は高い。記録を出したことで、協調性がないと評価されるかもしれない。部長が態度を変える保証もない。

 最後の唐揚げは少し冷め、衣が油を吸っていた。それでも噛むと、にんにくと醤油の味は濃く残った。レモンを絞らないまま、創はその重さを最後まで飲み込んだ。