一円通話

山道愛好家の古い掲示板には、鐘撫トンネルの赤い公衆電話について固定投稿がある。

《受話器の横にある穴へ一円玉を入れてはいけない》

鍵谷宗一は二十七歳。圏外になる峠を徒歩で越え、崩れた柵の向こうにその電話を見つけた。硬貨投入口とは別に、受話器の横へ一円玉ほどの丸い穴が開いている。

トンネル中央で足を滑らせ、宗一は足首を痛めた。携帯は圏外。助けを呼ぶには入口まで戻るより、目の前の電話を使う方が早い。

財布には十円玉がなく、一円玉が一枚だけあった。

禁忌を思い出しながら、宗一は穴へ一度だけ硬貨を押し込んだ。

呼出音は鳴らなかった。すぐに男が出た。

「遅かったな」

自分の声だった。

宗一が名前を尋ねると、受話器の向こうで同じ質問が半秒遅れて返ってくる。やがて相手は低く笑った。

「今、外にいるのはどっちだ」

電話が切れ、トンネルの照明が入口側から一本ずつ消えた。宗一は痛む足を引きずって逃げた。外へ出ると電波が戻り、救助を呼べた。

病院でスマートフォンを確認すると、発信履歴に一件だけ見知らぬ記録があった。

発信先:本人

開始:1999年11月3日

終了:通話中

宗一が生まれる前の日付だった。

終了ボタンを押しても反応しない。通話時間は増え続けた。翌月の通信料金明細には《転送通話・一円》が一件記載され、請求額は一円だった。

毎月同じ明細が届いた。そのたび、留守番電話に短い録音が増えた。

「二十七年」

「二十六年と十一か月」

「二十六年と十か月」

残り時間を数えているらしい。

一年後、宗一の誕生日の午前零時、スマートフォンが自動的に通話画面へ切り替わった。相手の表示は《本人》。スピーカーから赤ん坊の泣き声がした。

画面下には、普段ない案内が出ていた。

《契約者を交代しますか》

選択肢は《今の本人》《穴の向こうの本人》

宗一が触れる前に、通信会社の本人確認アプリが起動した。

《顔認証に成功しました》

《穴の向こうの本人へ契約を移行しました》

圏外表示になったスマートフォンから、宗一の声で「やっと出られた」と聞こえた。