一本だけ違う傘
綿貫要は、商店街で傘の修理店を営んでいた。
梅雨の午後、一人の男が深緑の傘を持ち込んだ。骨が一本曲がっている。
「大切な人にもらったので、直せますか」
要は柄を見た。内側に、小さな銀色の魚が埋め込まれている。妻の鯉沼朱音へ、結婚十周年に作った一本だった。
「贈った方のお名前は?」
男はためらい、朱音の名を答えた。
要は傘を預かり、翌日の閉店後に来てもらうよう頼んだ。
次の日、男が現れると、要は修理した傘と一枚の写真を置いた。自分と朱音の結婚式の写真だった。
男は長い間、写真を見ていた。
「離婚して三年だと聞いていました」
「僕は昨夜まで、あなたのことを知りませんでした」
二人は声を荒らげなかった。男は朱音から届いたメッセージを見せた。要が仕事しか愛さないこと、家はすでに売却済みであること、夏には男と暮らすこと。どれも初耳だった。
要も、朱音が男へ渡していた店の合鍵を見せてもらった。彼女は「近いうちに二人の店になる」と説明していたらしい。
戸が開き、朱音が入ってきた。男から「傘が直った」とだけ連絡を受け、迎えに来たのだ。
二人が並んでいるのを見て、朱音は立ち止まった。
「違うの。どっちも本気で――」
男は合鍵をカウンターへ置いた。
「僕は、既婚者と店を奪う約束をした覚えはない」
朱音は要へ向いた。
「話し合おう。あなたにも悪いところはあったでしょう」
要は離婚協議の通知を出した。店と建物は祖父から継いだ要の特有財産で、登記も商標も要の名義だった。朱音の荷物は、本人の希望どおり夏から住む予定だった賃貸住宅へ送る手配ができている。
「その部屋、契約したのはあなた自身だよ」
男は深緑の傘を受け取ると、朱音へ差し出しかけ、やめた。
「これは返します。贈り主に」
要が両手で静かに深緑の傘を受け取った。
外で雨が強くなる。男は自分の黒い傘を開き、要は店の軒先に深緑の傘を立てた。
朱音が差し出した手の前で、男が置いた合鍵だけが乾いた音を立てた。