一杯に注がれた千年
「酒は一杯までです」
夜の歓楽街にある宿酒場〈黒葡萄〉を、女主人グレアは一人で回している。樽を数え、グラスの曇りを拭き、酔客が二杯目で泣き始める前に水を出す。無愛想だが、彼女の店では喧嘩が起きない。刃物を抜いた者はなぜか翌朝、店の外で水桶を抱えて目覚める。誰が運んだのかを覚えている客はいなかった。
若い司祭オフィーは、連続失踪事件を追って店へ来た。怪しいのは、毎晩違う名を名乗る青白い貴族だった。失踪者は全員、その男から二杯目を奢られた直後に姿を消している。オフィーは聖水を袖へ隠し、一晩見張った。
閉店間際、その貴族が本性を現した。血侯ヴァルド。千年生き、飲んだ命を魔力に変える吸血魔族だ。扉を封じ、オフィーの喉へ牙を向ける。投げた聖水は空中で赤く染まり、逆に司祭の腕へ絡みついた。千年の魔族に若い神術は届かない。
グレアは磨いていたグラスを卓上へ置いた。
「注文はまだでしたね」
赤ワインを一筋注ぐ。
すると血侯の体から、これまで奪った血と年月が逆流した。千年の夜、百の城、数え切れない悲鳴が、細い赤い液体となってグラスへ収まっていく。ヴァルドは一瞬で老い、灰になる前に、グレアがコルク栓を落とした。奪われた命の灯だけは瓶から抜け、青い火の粒となって夜の町へ帰っていく。灰も影も、瓶の中へ吸われた。
オフィーだけが見た。瓶の底に、大魔法使い〈宵の醸造師〉の紋章が浮かぶのを。魔王の不死を一瓶に封じたという伝説そのものだった。
「あなたは教会が捜している……」
「閉店ですよ」
グレアは床の赤い雫を塩で拭き、砕けた椅子を元へ戻した。血侯の外套は雑巾に変え、指輪は失踪者の遺品箱へ送る。二階の宿泊客は誰一人起きなかった。
翌朝、オフィーが証拠を求めると、棚には銘柄のない瓶が一本増えているだけだった。中の赤は二度と揺れない。失踪者たちは町の各所で眠りから覚め、何日過ぎたかも知らず家へ戻ったという。
グレアは朝から酒を欲しがる旅人の前へ水差しを置き、昨夜と同じ冷たい声で告げた。
「酒は一杯までです」