一枚だけの名刺
新興企業の資金調達会議に、通訳席の隣で黙って座る男がいた。高辻廉生。安い紺のスーツで、名刺を一枚しか持っていない。
社長は海外投資団の代表者だけに笑顔を向け、高辻には資料を配らなかった。
受付では、高辻だけ来客用の水も出されなかった。彼が自分で給水器へ向かうと、社長は「身の回りのことをする人は助かる」と笑い、空いたコップまで片づけさせた。海外投資団の代表たちは何度も高辻の表情をうかがっていたが、社長はそれを通訳待ちだと思い込んだ。私は秘書席で、彼らの資料の最上段に高辻の顔写真があることに気づいた。
ページの見出しは「最終承認者」。私は社長へ知らせようとしたが、彼は私にも黙って茶を出せと命じた。高辻はそのやり取りまで、時刻付きでメモしていた。
「随行員は壁際で。機密数字が載っています」
高辻は席を立たず、売上予測のページを指した。
「解約顧客を新規契約に含めていますね」
社長の笑顔が消えた。
「日本語係に財務は分からない。翻訳だけしてください」
通訳が困った顔で、高辻は通訳者ではないと説明しかけたが、社長は英語で遮った。自社の技術が世界初で、競合はいない。投資は今日決めるべきだとまくしたてる。
高辻は一枚の名刺を机に伏せたまま、三つだけ質問した。特許の帰属、解約率、創業者株の担保。社長はどれも曖昧に答え、最後には彼を会議室から出すよう秘書に命じた。
「出資者と話しているんだ。付き添いが交渉を止めるな」
海外投資団の代表が、初めて日本語で答えた。
「私たちは、彼の付き添いです」
社長は意味を理解できず笑った。代表者たちは一斉に立ち、高辻が伏せていた名刺を表にした。そこには会社名ではなく、国家投資基金・最終投資委員会議長とだけ印字されていた。
投資団の法務責任者が告げる。
「高辻廉生議長が百億円案件の拒否権を持ちます。本日の面談は、経営者適格性の最終審査でした」
高辻は名刺を社長の資料の上へ滑らせた。
「数字より先に、相手を見る癖が確認できました。審査結果を確定します」