一行だけ明朝体

建設現場用の墜落防止金具を巡る特許買取会議で、由利本景は町工場のCAD担当として元請け本社にいた。金具の二重ロックを考えたのは景だったが、出願の発明者は元請けの安全部長だけだった。

元請けは、景が発明者ではないと認めた譲渡確認書を示した。景の署名も町工場の角印もあり、見た目は整っている。

景はPDFを拡大した。本文はすべてゴシック体なのに、「由利本景は発明者に該当しない」という一行だけ明朝体だった。文字を選択して削除すると、その下から別の文章が現れた。

「共同発明者として由利本景を記載する」

元のPDFへ白い長方形を重ね、その上に否定文を置いていたのだ。電子署名済み文書なら変更できないはずだが、画面の署名表示は画像にすぎなかった。

安全部長は、表示上の不具合だと主張した。

景は紙の原本も出した。町工場が保管する確認書には共同発明者の一行があり、角印も同じ位置に押されている。元請け版の署名と印影は、原本を六百分解像度でスキャンした画像だった。拡大すると、紙についた埃の点まで一致した。

買取先の役員は金具の模型を手に取った。

「誰が二重ロックを考えたのですか」

景は初期図面の赤線を示した。安全部長のコメントは「コスト増、却下」。その三週間後、同じ構造が部長名義の発明届に現れている。

安全部長は、町工場への注文を止めると脅した。

景は模型のロックを二度鳴らした。

「一行を隠す白い箱には、二重ロックがありませんでした」

景の町工場社長は、元請けとの取引が切れれば十人の職人が困ると声を詰まらせた。景は金具の実施許諾を拒むつもりはなく、共同発明として契約し直したいだけだと伝えた。白い長方形で名前を隠した側が、取引停止を盾にする。その順序こそ、買取先が最も恐れる訴訟の種だった。

買取先の法務担当は、元データと偽造PDFのハッシュ値を別々に保存した。

役員は買取契約書を閉じた。明朝体の一行だけが画面に残り、押印の決裁はそこで止まった。