一音目の所有者

星ヶ峰芹花は、スニーカーと古いパーカでピアノサロンへ入った。

中央には、価格一億円のコンサートグランドが置かれている。芹花が鍵盤へ手を伸ばすと、店長の桑名谷龍平が蓋を閉じた。

「試奏は演奏家か購入予定者に限ります」

「高音部の調整を確認したいんです」

「音大受験なら、地下の練習室をご案内します。こちらは触るだけでも調律が必要になりますので」

奥にいた若い調律師が、芹花の指先を見て息をのんだ。

「星ヶ峰先生ではありませんか」

桑名谷は笑った。

「先生は海外公演中だ。動画で見た顔に似ているだけだろう」

芹花は一音も弾かず、調律師の名刺を受け取って帰った。

翌夜、同じサロンで新型ピアノの世界発表会が開かれた。メーカー親会社の新社長と、匿名で開発へ参加した演奏家が紹介される。

芹花が壇上へ上がった。

彼女は国際コンクール優勝者であるだけでなく、星ヶ峰楽器グループの筆頭株主兼社長だった。演奏活動の合間に新アクション機構を設計し、一億円のピアノも本人の試奏データで完成していた。古いパーカは、前夜のリハーサルで使っていたものだった。移動にも社用車を使わず、楽器店へは地下鉄で来ていた。

桑名谷は言い訳した。

「商品保護を最優先しただけです」

芹花はピアノの前へ座り、最初の一音を鳴らした。

高音にわずかな濁りがあった。若い調律師が前日、異常を報告していたが、桑名谷は発表会を優先して記録を消していた。

「触らせなかったのは、音を守るためではなく、不具合を隠すためですね」

監査担当が調整記録を復元し、桑名谷の店長権限を停止した。

芹花は若い調律師を開発工房へスカウトし、世界ツアーの専属技師候補へ任命した。彼が数分で原因を直す。

芹花がもう一度、同じ一音を弾く。今度は澄んだ響きが天井まで伸びた。

新型ピアノの発売契約と調律師の採用が同時に承認された瞬間、受験生扱いされた社長の一音が世界へ届き、桑名谷の名前だけが演奏会のスタッフ表から消えた。