七号室のくぼみ

山あいの古い旅館には、七号室だけ予備の布団が二組あった。

一人客にも、必ず二組敷く。

女将は「昔からの決まりです」としか説明しなかった。

誰にも別れを告げずに去ろうとしている客が泊まると、使っていない布団に子どもほどのくぼみができた。

ある冬、四十代の女性が一人で来た。

荷物は小さく、帰りの切符を持っていない。

夕食にもほとんど手をつけず、家族からの着信を何度も切った。

夜、女将が七号室を確認すると、予備の布団に深いくぼみがあった。

誰かが横向きに丸まっているような形だった。

女将は事情を聞かなかった。

代わりに、くぼみの横へ小さな湯たんぽを置いた。

翌朝、女性はそれを抱えて帳場へ来た。

「子どもがいるんですか」

「見たことはありません」

「夜中、布団が沈んでいました」

「そういう部屋です」

女性は家へ帰らず、名前も告げず、遠い町で暮らすつもりだった。

長年、病気の母を一人で介護してきた。

兄弟は「任せた」と言うだけで、助けに来ない。

逃げたいと口にすれば薄情だと思われる。

だから消えるしかないと思ったという。

女将は湯たんぽの栓を締め直した。

「出ていくことと、消えることは違います」

「同じでしょう」

「違います。出ていけば、残った人が追いつける」

女性は笑わなかった。

それでも昼まで部屋を借り、兄弟の一人へ電話をした。

介護を分けないなら、家を出る。

母にも自分の言葉で伝える。

そう告げた。

電話のあと、女性は震えていた。

女将は七号室の予備布団へ一緒に座った。

くぼみはまだ残っていたが、少しずつ浅くなった。

女性は旅館から直接、新しい住まいを探しに行った。

家族とは激しく揉めた。

母も最初は泣いた。

それでも介護サービスと兄弟の当番が決まり、女性は週に二日、自分の部屋へ帰れるようになった。

一年後、同じ客が七号室へ泊まった。

今度は帰りの切符と、大きな土産袋を持っていた。

予備の布団は朝まで平らだった。

「いなくなったんですか」

女性が尋ねると、女将は首を振った。

「今日は、隠れなくてよかったのでしょう」

旅館では今も、一人客に二組の布団を敷く。

寂しい人のためではない。

さよならを言う前に、どこかへ消えようとする人が、一晩だけ自分の場所へ戻ってこられるように。