三つの保存容器
日下部紅実は、友人の新居で最後の段ボールを畳んだ。
時計は午前二時。床にはまだ家具の跡がなく、カーテンも届いていない。友人は引っ越し祝いの代わりに、ひよこ豆のスープを一杯だけ温め、紅実の前へ置いた。
クミンの香りが空の部屋へ広がり、豆は噛むとほくりと割れた。
この部屋の敷金に使えたはずの金を、紅実は半年前に借りていた。資格講座の受講料が足りないと言って借りた。返す約束は先月末。けれど仕事が減り、口座には約束の三分の一しかない。
友人は催促しなかった。新居の契約が決まったときも、「返せるときでいい」と笑った。その優しさに甘えるほど、紅実は会いづらくなった。
送金アプリを開いては、全額に届かない数字を消した。少額だけ返すのは誠意がないと思い込み、結果として一度も返していなかった。
今夜も引っ越しを手伝えば、返済の話をせずに役に立てると思って来た。
友人はスープを置くと、シャワーを浴びに行った。紅実一人だけが、段ボールの机で食べる。
器には、ひよこ豆がたくさん沈んでいた。紅実は無意識に三粒ずつすくった。三分の一なら返せる。残りはいつになるか分からない。全部そろうまで黙っているほうが誠実だと思ってきたが、黙ることは一円も返さないことより重くなっていた。
最後まで食べると、鍋に三杯分ほど残っていた。
紅実は新居の箱から保存容器を三つ出した。友人の許可を取らず、一杯ずつ取り分ける。蓋には油性ペンで日付を書いた。今日、来月の給料日、その次の給料日。
今日の容器だけ、少し量が足りない。
紅実は自分の器に残していた最後の一口を鍋へ戻し、三つが同じ高さになるよう分け直した。それからスマートフォンで、返せる三分の一を送金した。
シャワーから戻った友人は、空の器より先に、日付の並んだ容器を見た。紅実は言い訳を用意していたが、友人は何も聞かない。
ただ二つ目の蓋の日付へ線を引き、その三日後を書き足した。紅実の給料日ではなく、友人の休日だった。
「その日に食べに来て」
言葉はそれだけだった。
借金は消えなかった。約束も三回に割れたままだった。それでも紅実は、最初の容器を友人の冷凍庫へ入れた。
返す日を取り分けたことで、二人の間にあったのは催促されない沈黙ではなく、次に会うための具体的な三つの日付になった。