三百円から始まる孤独
一色藍生は、若いころ買わなかった宝くじの番号を五十年間覚えていた。当選金は三百億円。借金に追われた夜、その売り場を素通りしたことが、人生最大の間違いだと思っていた。
七十歳で過去修正権を手に入れると、藍生は二十五歳の自分に三百円を握らせた。
更新後、彼は防弾ガラスの寝室で目覚めた。資産は二千億円。顔認証を三度通らなければ廊下にも出られなかった。
家族の連絡先には、裁判所の接触禁止命令が添付されていた。藍生は当選後、親族へ金を配り、返礼を求め、従わない者の生活を買収で壊した。息子の会社を乗っ取り、娘の結婚相手を調査し、妻の治療方針まで札束で決めた。元の人生では、妻の病室へ毎日自転車で通い、髪を洗ってやった記憶がある。更新後の記録では、最高額の病院へ移したあと、会議を理由にほとんど見舞っていなかった。妻の最後の音声は「あなたは何でも用意するけれど、ここには来ない」だった。
孫たちには、藍生から贈られた高価な品を受け取らないための信託まで作られていた。
元の人生は貧しかったが、家族は週末ごとに狭い台所へ集まった。藍生は、金さえあればもっと優しくできたと思っていた。実際は、金によって優しさにも価格をつけただけだった。
取消は不可能だった。当選金から派生した企業、雇用、出生が多すぎ、時間監査AIが「復元時の消滅人口、推定八百万人」と表示した。
藍生は全財産を慈善信託へ移した。これで家族が戻ると、どこかで期待していた。息子は受領通知だけ送り、会おうとはしなかった。
「貧しかったから優しかったんじゃない」と、唯一電話に出た娘は言った。「優しかった父さんが、金を持って変わったの」
藍生は初めて、三百円の前へは戻れないのだと理解した。
彼は身元を隠し、無料食堂で皿洗いを始めた。遅く、泡だらけで、何枚も割った。誰も彼に感謝を要求されず、彼も誰からも愛情を買えなかった。
ある夜、常連の子どもが欠けた皿を持ってきた。
「おじさん、これ捨てる?」
藍生は首を振った。
「まだ使えるものを、値段だけで決めない練習をしてるんだ」