三語だけの自転車
兄が事故で亡くなり、弟は赤い自転車を引き取った。
派手で、籠が曲がり、ベルの音も濁っている。
兄とは最後まで喧嘩したままだった。
自転車店でベルを直すと、店主が小さな翻訳部品を付けた。
一度走るたび、自転車が道で覚えた言葉を三語だけ話すという。
最初の散歩でベルが鳴った。
「パン屋。右。待て」
意味が分からず右へ曲がると、坂の途中のパン屋があった。
店主は自転車を見るなり、
「毎週、売れ残りを施設へ運んでくれた子だ」
と兄の話をした。
次の走行。
「橋。猫。魚」
橋の下で、地域猫へ餌をやる老人がいた。
兄は釣った魚を時々届けていたらしい。
弟の知らない兄が、道のあちこちにいた。
家では乱暴で、約束を守らず、弟の物を勝手に使った。
外では誰かの荷物を運び、立ち話をし、困っている人へ寄り道していた。
弟は腹が立った。
「家でも、そのくらい親切にしろよ」
ベルは一走行三語しか話さない。
答えはない。
ある夕方、自転車は言った。
「弟。試合。雨」
兄が亡くなる一年前、弟のサッカーの試合は大雨だった。
家族は来られず、弟は一人で帰った。
兄も来ていないと思っていた。
競技場へ行くと、受付の倉庫に赤い自転車の古い写真があった。
雨宿りする兄が、濡れた弟のチーム旗を乾かしている。
試合中、観客席の端にいたのかもしれない。
「見てたなら、言えよ」
弟は自転車へ怒鳴った。
ベルが自然に揺れた。
その日の三語はもう使い切っている。
濁った音だけが返る。
最後に、兄と喧嘩した日の道を走った。
弟は兄の自転車を勝手に借り、倒して傷を付けた。
兄は激怒し、
「二度と触るな」
と言った。
その翌日に事故が起きた。
家の近くでベルが話した。
「母。夕飯。遅い」
弟は泣きながら笑った。
兄もきっと、特別な遺言など残していない。
夕飯に遅れることを気にしながら、いつもの道を走っていただけだ。
赤い自転車は弟の通学用になった。
一走行ごとに三語を話すことは次第に減り、やがて普通のベルになった。
弟は寄り道をする。
パン屋の袋を運び、橋の猫を見て、試合会場を通る。
兄の代わりではない。
同じ自転車でも、自分の道を増やすためだ。
帰宅が遅い日は、母へ連絡する。
三語で足りる。
「夕飯、少し、遅い」