上澄みの生還者

 伏見野伊織は、二本ある管のうち短いほうを咥えた。

 大杯の上層だけを吸う管だ。向かいの元水泳選手が「先でいい」と笑い、長い管を指で弄ぶ。

《一つの杯を二人で半量ずつ飲め。十秒後も立っていた者が勝者となる》

 杯は一つ。毒が入っていることだけは告げられた。半分ずつなら二人とも死ぬのか、片方だけ助かるのか。説明はない。

 伊織は急いだ。透明な液体を、杯の目盛りが半分になるまで吸い上げる。冷たいが、舌に異常はない。

 飲むほどに水面は下がるが、短い管の先は沈殿へ届かない。相手はそれを「安全な上だけを奪った」とは見ず、「先に毒見をしている」と解釈した。自分に都合のよい説明ほど、人は疑わない。

「臆病者ほど先に飲みたがる」

 相手は笑った。「毒は後から効く。お前が倒れるのを見てから、俺は管を替える」

『前半量の飲用を確認。後半量を開始せよ』

 機械が長い管を男の口へ固定した。底の液体が吸い上げられる。最後に、黒い砂のような沈殿が管を通った。

 男の笑みが消えた。

 十秒後、立っていたのは伊織だけだった。

『勝者、伏見野伊織』

「なぜ上に毒がないと分かった」

 倒れながら、男が絞り出す。

「杯を運んだ係員が、階段を上る時だけ両手で水平に持っていた。混ぜたくなかったんだ」

 毒は液体全体へ均一に溶けていなかった。重い結晶が底に沈んでいた。二人で「同じ杯を半分ずつ」飲むという言葉が、危険も等分される錯覚を生んだだけだ。

「主催者は公平な分配を装った。けど量が同じでも、中身が同じとは限らない」

 杯の側面には二等分の目盛りだけがあり、上下を混ぜる棒はなかった。公平を強調する道具ほど、不公平な部分から目を逸らさせる。伊織はその欠落を読んだ。

 伊織は短い管を外す。

 男は最後まで、先に飲んだ者が実験台だと思っていた。実際には、待つことこそ底へ近づく順番だった。

 勝者の扉が開く。

 伊織の腹にも半量の冷水が重く残っている。安全だった喜びより、同じ量という言葉に自分まで安心しかけたことが怖かった。

 空になった大杯の底には、黒い輪だけが残っていた。