下山届
道祖土真弓は、山岳サークル最後の飲み会に登山届の束を持ってきた。居酒屋の卓上で、濡れた紙のような過去が広がった。
「解散届に添付する活動記録。事故の報告書も」
新発田遼が、事故という言葉に箸を止めた。
久我山朋はビールの泡を見つめたまま言う。
「名前は書かなくていい。大学の書式は人数だけだ」
二年前、冬山で下級生を一人失った。三人は救助され、サークルは活動停止になった。調査は終わり、誰か一人の責任ではないとされた。それでも三人の会話には、いつも空いた四席目があった。
真弓は春から山岳ガイド会社へ入る。
「まだ山に行くのか」と遼が聞く。
「行く。あの日の判断を、間違いのまま固定したくない」
遼は保険会社の事故調査部門へ就職する。
「俺は紙の上で山を見る。登った人が、何を言わなかったか調べる」
「自分を調べるつもり?」
「たぶん一生」
朋は海辺の町で図書館司書になる。もう登らない。
「山を嫌いになった?」
「好きなまま近づかない。嫌いなら戻れる気がするから」
三人は別々の答えを選んだ。真弓は上へ、遼は記録の中へ、朋は海抜の低い町へ。
店員が人数分の取り皿を置いた。四枚あった。予約時の人数を、真弓が昔の癖で四人と入力したらしい。
「下げてもらう?」
誰も手を挙げなかった。
真弓は事故報告書の最後に、〈本件をもって活動を終了する〉と書いた。遼が署名し、朋が日付を入れた。
「下山届みたいだね」と朋が言う。
「下山届は、帰ってから出すものじゃない」
「帰った人しか出せないんだよ」
三人はグラスを合わせなかった。飲み干し、席を立ち、別々の改札へ向かった。
卓上に、朋のカラビナが一つ残っていた。かつて四人のザックを連結して運んだ銀色の金具だった。店員は忘れ物箱へ入れようとしたが、開いたゲートが皿の縁に引っかかった。
四枚目の取り皿だけが最後まで下げられず、誰も座らない席の前で白く残った。