世帯主は私
槙子は、マンションの防災登録票を三日間、冷蔵庫に貼ったままにしていた。
〈世帯主氏名〉
〈同居人数〉
〈救助時に配慮が必要な事項〉
たった三行なのに、書けなかった。
去年までは部屋番号だけ出していた。名簿に名前を残すのが怖かったからだ。今年、同じ階の住人から「前回の避難訓練、いるのか分からなかった」と言われ、空欄にも別の危うさがあると知った。
世帯主という言葉には、食卓の先頭に座る誰かの姿がある。槙子は一人暮らしを八年続け、家賃も光熱費も自分で払っている。それでも「世帯主は私です」と言うのは、借り物の肩書きを名乗るようで落ち着かなかった。
登録しなければ、部屋番号だけが防災名簿に載る。管理組合からは、個人情報が気になる人は空欄でもよいと言われていた。
机には二枚のシールがあった。
〈登録済〉
〈登録辞退〉
辞退を貼れば、単身女性であることを周囲に知られずに済む。登録すれば、災害時に不在か取り残されているかを確認してもらえる。その代わり、自分も同じ階の安否確認を手伝う当番に入る。
一人でいる不安を減らしたい。でも、自分だけ見つけてもらう側になるのは嫌だった。
提出日の夕方、回収に来た管理組合の人が玄関先で尋ねた。
「世帯主の方はいらっしゃいますか」
槙子は一瞬、誰かを呼ぶように部屋の奥を見た。もちろん誰もいない。
「私です」
口にすると、拍子抜けするほど普通の言葉だった。
槙子はその場で自分の名前を書き、同居人数には「〇」と記した。配慮事項の欄には、〈強い揺れの後、玄関扉が開きにくい〉と、以前気づいたことを書く。
そして登録済のシールを選んだ。
世帯主になったからといって、孤独に強くなるわけではない。当番の日に誰かの扉をたたいても、返事がない怖さを背負うことになる。それでも、見えない一人でいるより、互いに数え合う一人でいたかった。
登録票を渡すと、控えに〈一世帯一名〉と印字された。
槙子はその数字を訂正しなかった。一は欠員の数ではない。今ここで暮らし、助けられる責任と助ける責任を持つ、ひとつの世帯の数だった。