主演の名前を消す

映画祭の審査結果が出るたび、立花一玄の編集室へ一文が巻き戻ってきた。

〈泣く直前の顔を十二フレーム長く残せ。〉

赤いフィルムリーダーが机から垂れている。新人監督の一玄は、今夜零時までに最終版を納品し、グランプリを取れば劇場公開と次回作を得られる。主演俳優は撮影後に引退し、連絡を絶っていた。

一文通りに編集すると、一次審査は通ったが最終選考で落ちた。結果画面が暗転し、また納品前へ戻る。

二周目は無音を二秒伸ばし、四周目は最後の台詞を切った。戻るたび、主演が泣く直前の顔がモニターに止まる。七周目、一玄は未来からの指示を数字へした。

〈事故テイク37、寄り12F、呼吸2.1秒、音楽なし。〉

九周目、グランプリ。審査員は「演技を越えた真実」と評した。配給契約書が届き、成功条件は満たされた。

確定前、一玄は元データの音声を上げた。事故テイクで主演は演技をしていなかった。撮影現場の安全装置が外れ、本当に転落しかけた直後、パニック発作を起こしていた。監督だった一玄はカメラを止めず、「使わない」と約束した。その約束を、未来の自分は十二フレームずつ削っていた。

主演の引退理由も、映像を無断で試写に使ったと知ったからだった。

赤いリーダーの端には、本人の手書きで〈この顔だけは作品にしないで〉とある。

一玄は受賞版を固定する一文を消した。

〈事故テイクを完全消去し、作品を映画祭へ出品するな。〉

納品前へ戻る。

一玄は素材、バックアップ、クラウドの複製まで削除した。映画は未完成となり、製作費の返還請求で破産。業界団体からも除名され、次回作の契約は消えた。共同出資者から訴えられ、撮影機材も手放した。主演へ謝罪文を送ったが、返事はなかった。既読表示すらつかず、それを確かめるたび、一玄はもう時間が戻らないことを知った。

一年後、一玄は結婚式映像の編集会社で、知らない二人の笑顔をつないでいた。赤いリーダーだけは引き出しに残してある。

十二フレーム分の空白を入れても、誰も気づかなかった。その空白だけが、彼の映画より正直だった。