乗らなかった電車

小早川珠希は、その電車に乗れば家出が完成するはずだった。

鞄には制服と財布と、充電器だけ。家族には何も言っていない。部活を辞めたことも、成績が落ちたことも、もう期待に応えられないことも。

夕方のホームで快速を待っていると、箕輪章悟が現れた。

「何その大荷物」

「修学旅行」

「十一月に?」

「自主開催」

同じクラスだが、特に仲がいいわけではない。章悟は珠希の隣に立ち、時刻表を見た。

「快速、あと八分」

「知ってる」

「俺、各停」

「聞いてない」

章悟は帰ろうとしなかった。

「今日、英語の小テスト返った?」

「返った」

「何点」

「言わない」

「俺、十二点」

「自慢する点じゃない」

どうでもいい話を続ける。購買の新しいパン、担任の寝癖、来週の席替え。珠希がいなくなった後にも学校が続くことを、一つずつ並べるように。

章悟は、珠希が今日一度も笑っていないことに気づいていた。昼休みに弁当を残し、部活のロッカーから荷物を全部出し、担任に呼ばれても目を合わせなかったことも。仲がいいわけではないというのは珠希の側の認識で、章悟は一年間、斜め前の席から思っていたより多くのことを見ていた。

快速の接近放送が流れた。

「乗らないでって言わないの?」

珠希が聞くと、章悟は線路を見たまま答えた。

「言ったら、俺のために残るみたいで嫌だろ」

電車のライトが近づく。

「でも明日、十二点の答案を見せる相手がいないと困る」

「誰でもいいじゃん」

「珠希じゃないと、正しい笑い方をしてくれない」

快速がホームへ入った。扉が開き、人が降り、人が乗る。珠希は黄色い線の内側に立ったまま動けなかった。

発車ベルが鳴る。

扉が閉まり、電車は行ってしまった。

「家出、失敗?」

章悟が聞いた。

珠希は鞄を足元へ置いた。

「今日はね」

それ以上は約束しなかった。それでも章悟は頷き、次の各停を一緒に待った。

家へ帰るまでの十五分、珠希は初めて、自分が何から逃げようとしていたのかを話した。章悟は一度も励まさず、ただ乗り換え駅まで聞いていた。