二十九日目の継続率
睡眠改善アプリ「ネムリオ」のシリーズC投資会議で、土岐津亮はデータ分析を代行する会社の若手社員だった。月額課金の三十日継続率七十八パーセント。それが評価額百二十億円を支える数字だった。
亮は集計SQLを確認した。条件式は「利用開始日との差が30未満」。三十日目ではなく、二十九日目までに一度でも起動した人を継続扱いにしている。
創業者は、業界では一般的な定義だと説明した。
亮は契約書の指標定義を読み上げた。「登録日の三十日後に有料契約が存続する利用者割合」。アプリ起動ではなく有料契約、しかも三十日後である。
正しい条件へ直すと継続率は四十一パーセントまで下がった。無料期間が二十九日間に設定され、三十日目の課金前に大半が解約していたからだ。
最高財務責任者は、解約申請の処理が遅れるため実質継続だと言った。亮は決済ログを示した。三十日目に課金されたのは全体の三十九パーセント。残り二パーセントは返金済みだった。
さらに「七十八パーセント確認済み」とした監査印の時刻は、SQLが前夜に書き換えられる前。監査したのは旧データで、投資資料の数字を確認していない。
亮の上司は、定義の差を重大不正と呼ぶなと目配せした。ネムリオは大口顧客だった。
亮は条件式の「<30」を大画面で拡大した。
「不等号一つで、解約者を利用者へ戻しています」
創業者は、資金がなければ医師監修の新機能を出せないと訴えた。
亮は分母の処理も確認した。二十九日目までに解約申請した利用者は集計対象から除外され、残った人だけで七十八パーセントを計算していた。全登録者を分母にすれば三十七パーセント。日数を一日縮め、解約者を分母から消す二重の操作だった。
亮は修正前後のSQLへ電子指紋を付け、誰が何時に不等号を変えたかを監査記録として固定した。
投資委員長は契約書のKPI保証欄を閉じた。二十九日目まで続いた利用者が、三十日目の投資決裁を越えることはなかった。