二通の封筒
平良文香が風の強い高架駅へ上がると、白い紙がホームを走ってきた。靴で端を押さえ、拾い上げる。表には「退職届」とあった。
少し離れたところで、女性が残りの紙を追っている。文香は三枚を集めて渡した。
「封筒に入れてから持ち歩いたほうがいいですよ」
「入れてたんです。出すか迷って、何度も開けたから」
女性は次の仕事を決めていなかった。上司に机を蹴られたのが今日で、明日も同じ席へ行く自信がないという。
文香は、辞めるなら準備してからが常識だと思う。家賃、保険、税金。怒りで空白を作る人を、勇敢とは呼べない。
「今日は持って帰って、朝に読み直したら」
「朝まで置いたら、また出勤する気がします」
女性は文香の鞄からのぞく茶封筒を見た。中には、文香が半年かけて書いた社内相談窓口への申立書がある。出せば部署に居づらくなる。破って帰るつもりだった。
「あなたも、朝まで置くんですか」
「これは退職届じゃありません」
「知ってます。迷ってる紙です」
文香は反論せず、散った紙の順番を整えた。日付のない一枚を見つけると、女性はホームのベンチを机にして今日の日付を書いた。手が震え、最後の数字だけ二重になる。文香は書き直せとは言わず、署名と宛名がそろっているかだけ確認した。
女性は髪から黒いピンを一本抜き、退職届の左上を留める。今度は女性が文香の封筒を押さえ、風で申立書が飛ばないようにした。内容は読まなかった。文香は鞄の底から予備の封筒を出して渡した。
ホーム下の郵便差出箱は、夜間も口だけ開いていた。女性は退職届を入れ、文香は申立書を持ったまま立つ。女性は急かさず、差出箱の蓋が風で閉じないよう片手で押さえた。文香は封筒の宛名を最後に一度だけ読み、鞄へ戻す代わりに持ち手から指を離した。
二人の選択は同じではない。女性は会社を離れる紙を、文香は会社に残って声を上げる紙を持っている。
それでも二人は、同時に腕を伸ばした。
箱の中で、二通の封筒が少し違う音を立てた。