介助用スプーンの向き

昼食の席で、笙子の前に介助用スプーンが置かれた。

「おばあちゃんに食べさせて」

母は自分の味噌汁へ手を伸ばす。祖母は右手を膝に置き、左手で湯呑みを持っていた。

「自分で食べられないの?」

「遅いのよ。こぼすし。あなたが来た日くらい、私を休ませて」

母の疲れは分かる。けれど笙子が来るたび、食事も着替えも排泄も、説明なしに手渡された。母は「若いからできる」と言い、祖母は申し訳なさそうに小さくなる。

笙子が一口を運ぶたび、母はその間に洗濯や電話を済ませた。帰るころには「助かった、また来週」と次の約束ができている。祖母の食事は、母の休息と笙子の当番を同時に決める時間になっていた。 祖母が何を望むかだけが、いつも後回しだった。 笙子は、その順番も変えたかった。

笙子はスプーンを持ち上げたが、祖母の口へは運ばなかった。

「おばあちゃん、左手なら持てる?」

祖母が頷く。笙子はスプーンの向きを変え、左側へ置いた。皿の下へ滑り止めを敷き、一口分だけすくいやすい位置へ寄せる。

母が苛立つ。「そんなことしてたら一時間かかる」

「今日は一時間かける。でも次から私が毎回食べさせる約束にはしない。作業療法士さんに道具を見てもらおう」

祖母はゆっくりスプーンを握り、豆腐を一切れ口へ運んだ。半分こぼれたが、二口目は皿の縁を使ってすくえた。

笙子は母へ、自分の来訪は月二回の昼食だけにすること、その日は母が外出してもよいが、食事以外の介助はヘルパーへ頼むことを伝えた。

母は返事をせず、冷めた味噌汁を飲んだ。やがて「私も、急がせすぎてたかも」と呟いた。

笙子は慰めなかった。母の限界を認めることと、その限界の中へ自分が住むことは別だった。

食事の最後、祖母はスプーンを皿へ置き、「ごちそうさま」と言った。母はその手から奪わず、布巾でこぼれた豆腐だけを拭いた。

介助用スプーンの柄は、最初とは反対を向いていた。誰かへ仕事を押し出す向きではなく、祖母自身の左手へ届く向きだった。