介護ノートの余白

鳴滝家では、未羽だけが夜に眠れなかった。

義父の征夫は、枕元のベルを鳴らして水を求める。五分遅れれば、義母の麻知子が廊下で怒鳴る。夫の祐輔は布団から出ず、「父さんを大事にできないなら出ていけ」と言った。

征夫は昼になると一人で囲碁会へ出かけた。それでも夜は未羽に靴下まで履かせ、麻知子と祐輔は「介護の練習」と笑った。

三人は未羽へ介護ノートを付けさせた。時刻、食事、水分、排泄。ページの余白には、麻知子の指示と祐輔の確認印が残る。

《午前二時、わざと二回呼ぶ。嫁の態度を見る》

《明日の面接は断らせた》

《肩を痛めても甘やかさない》

未羽はノートを持って家を出た。

一年後、地方裁判所の法廷で、三人は口をそろえた。

「そんな指示はしていない」

「未羽が勝手に書き足した」

「家族介護の行き違いにすぎない」

鑑定人は、余白の筆跡が麻知子、確認印が祐輔、訂正署名が征夫本人のものだと証言した。訪問看護師も、征夫に夜間介助が不要だったこと、未羽の肩に重い損傷があったことを述べた。祐輔の旅行写真には、未羽が救急外来にいた夜、三人で温泉に泊まる姿が写っている。

裁判長が判決文を読み始めた。

三名は、介護を必要としない行為まで妻へ強制し、就労機会を奪い、継続的に人格を傷つけた。婚姻生活の破綻は三名の共同不法行為によるものと認定する。

祐輔は母へ小声で言った。

「控訴すれば、まだ払わなくていい」

裁判長の声が続く。

「被告らは連帯して、原告へ二千八百万円を支払え。内訳には慰謝料九百万円、休業損害、治療費、逸失利益を含む」

麻知子が立ち上がりかけた。

「本判決は、金銭支払部分につき仮に執行することができる」

傍聴席にいた未羽の弁護士が、執行申立書を閉じた。すでに三人の自宅、預金、祐輔の給与債権は調査済みだった。

征夫が、法廷で一度だけベルを鳴らした。

今度は誰も、その音に立ち上がらなかった。